消えた閉塞灯
隧道へ入ってから、四十分が経っていた。
《灰走》の車輪が継ぎ目を踏むたび、同じ振動が低床貨車を伝わる。
短く。
長く。
また短く。
ノインは胸部を十七度持ち上げた姿勢で固定されていた。
四本の鎖が腰と胸を押さえ、右脚と左脚は別々の固定梁へ縛られている。
頭部は胸側へ傾けられ、琥珀色の補助光学器が見ているのは、貨車の床と、隧道天井の僅かな隙間だけだった。
『上部間隔、三十四センチメートル』
「さっきから変わってない」
ミラは低床貨車の端に座り、背部冷却管へ手を当てていた。
管の中を冷却液が流れる。
正常なら、連続した細い振動がある。
今は、ときどき内部で小さな泡が弾ける音がした。
『次の補修区間では、天井高が二十二センチメートル低下します』
「知ってる。頭はこれ以上倒せないぞ」
『支持架の前側を一・八センチメートル下げれば通過可能です』
「走行中にやる作業じゃない」
『停止を要求しますか』
「列車長に言え」
貨車脇の伝声管へ手を伸ばすより早く、ノインが列車内回線を開いた。
『オスカー。補修区間通過前に、低床貨車の支持架調整を要求します』
機関車から、雑音混じりの声が返る。
『次の保線窪地まで十八分だ。そこで止める』
『その前に、天井高が二十二センチ低下します』
『図面では十五だ』
『戦後補修材の追加分を、偵察無人機が確認しました』
『無人機を先へ飛ばしたのか?』
『貸与許可を受けています』
『周囲警戒に一機と言った。隧道測量に使えとは言ってない』
『私の周囲には、隧道天井も含まれます』
沈黙の後、オスカーが低く唸った。
『減速する。十三分で補修区間手前へ着く』
「止まれるなら最初から止まれ」
ミラが呟く。
『列車運行上、停止には理由が必要です』
「お前が屋根を削るのは理由にならないのか」
『私には十分です』
低床貨車の後方から、靴音がした。
ユリア・メーレンが、車両間の渡り板を越えてくる。
隧道内では煤煙が逆流するため、濃紺の外套の上から簡易呼吸器をつけていた。
胸元の監察端末には、ノインの武装封印と通信履歴が表示されている。
「貸与無人機による測量は、契約の範囲外です」
『禁止項目には含まれていません』
「禁止されていないことは、すべて許可されているという解釈?」
『監察条件は、私の行動を制限する契約です。契約にない制限を、後から追加されることは認めません』
ユリアは端末へ何かを書き込んだ。
「その回答を記録します」
「何て書いた」
ミラが聞く。
「契約文言を、自分へ適用される規則として理解している」
「機械なら規則くらい読むだろ」
「自分に不利な拡大解釈を拒否するかどうかは、別の話です」
『私は不利だから拒否したのではありません。不明確な権限拡張を認めなかっただけです』
「それも記録します」
『その記録へ異議を付記できますか』
「できます」
『では、今の説明を付記してください』
ユリアは端末から顔を上げた。
しばらくノインを見ていたが、やがて記録欄へ文字を足した。
「付記しました」
『確認を要求します』
ユリアは端末をミラへ向けた。
ミラは表示を読んだ。
「書いてある」
『受理します』
「毎回これをやるの?」
ユリアが尋ねる。
『必要な場合は』
「セレネへ着く前に、記録欄が足りなくなりそうね」
列車が減速し始めた。
車輪音の間隔が長くなる。
先頭機関車の排気が、隧道内で重く響いた。
ミラは冷却管の継ぎ目を見た。
角度が変わるたび、内部の気泡が背部上側へ寄る。
まだ循環は止まっていない。
「十三分なら持つ」
『根拠を要求します』
「泡の音が一か所だけだ。二か所へ分かれたら流量が落ちる」
『流量計では、正常時の八八パーセントです』
「八十を切る前に音が増える」
『記録します』
列車がさらに速度を落とす。
そのとき、ノインの補助光学器が僅かに動いた。
見ているのは床だけだ。
だが、偵察無人機の映像が内部へ送られている。
『前方閉塞信号を確認できません』
ユリアが端末を見る。
「列車側の信号では、次区間は開通になっている」
『光学映像に閉塞灯が存在しません』
「切れているだけだろ」
オスカーの声。
『この隧道じゃ、灯が消えても軌道回路が生きてれば進む』
『軌道回路の開通信号と、実際の振動が一致しません』
ミラは床へ掌をついた。
列車自身の振動。
機関車。
貨車。
継ぎ目。
その下に、別の細い震えがある。
「前から何か来てる」
ユリアが眉を寄せた。
「単線よ」
「だからおかしい」
『前方から周期二・四秒の輪軸振動。重量は小型保線車両相当。距離、推定九百二十メートル』
オスカーが怒鳴った。
『西側閉塞所へ照会!』
伝声器の向こうで、通信士が呼びかける。
返事はない。
雑音だけが続く。
『西閉塞所、応答なし!』
『機関車を停止してください』
ノインが言う。
『もう止めてる!』
制動管へ圧力がかかる。
先頭から順に制動靴が車輪へ触れた。
甲高い摩擦音。
列車全体が前へ押し縮む。
低床貨車の固定鎖が張り、ノインの胸部を締めつけた。
『減速度が不足しています』
「貨物が重い」
『後部六両の制動圧が、指示値の四一パーセントです』
ミラは車両間の圧力計を見る。
針が上がっていない。
「後ろの制動管が抜けてる」
『管路破断であれば、非常制動へ移行するはずです』
「破断じゃない。閉塞弁だ。どこか一両だけ閉じてる」
オスカーの声が飛ぶ。
『誰が閉じた!』
『今は原因より停止を優先してください』
『止める手段がない! 前六両だけじゃ制動距離が足りん!』
ノインが距離を計算する。
『保線車両まで、七百四十メートル。現在速度では衝突まで七十四秒』
ユリアが手すりを掴んだ。
「相手へ警報を送れないの?」
『西閉塞所の回線が応答しません。保線車両側の無線も停止しています』
「偵察無人機を送って知らせろ」
『すでに実行しています』
無人機の映像がミラの携帯端末にも入る。
黒い隧道。
一本の軌道。
その先に、小さな保線車両が見えた。
手押し式ではない。
低い動力車。
後ろへ資材台車を二両つないでいる。
車両は止まっていた。
五人。
線路脇で、一人を担架へ載せようとしている。
こちらへ気づいていない。
「怪我人がいる」
『六名です。担架上に一名、作業員五名』
「無人機の灯を点けろ!」
『点灯しています』
映像の中で、作業員の一人がようやく顔を上げた。
無人機を見る。
次に、隧道の奥から近づく列車音へ気づく。
男が叫ぶ。
他の者が担架を持ち上げようとする。
だが保線車両と資材台車が線路を塞いでいる。
『衝突まで五十八秒』
オスカーが列車内回線へ怒鳴る。
『各車、手制動! 動ける者は最後尾へ走れ!』
兵員車と貨物車の扉が開く。
乗員たちが車両上の手回し制動器へ向かう。
だが、六両分を一人ずつ回しても間に合わない。
『手制動の作業完了まで、最短八十秒』
「ノイン、列車の回線へ入れるか」
ミラが聞く。
『制動制御線は接続されています。ただし、私が各車の電磁弁を直接操作すれば、無断の輸送制御介入に該当します』
ユリアの監察端末が警告音を鳴らす。
禁止項目。
無断での命令系統への侵入。
「今それを気にしてる場合か!」
『契約違反を実行するかどうか、確認が必要です』
「止めろ!」
『あなたの許可だけでは、条約監察条件を変更できません』
ノインの光学器がユリアへ向く。
斜めに固定された頭部。
貨車へ縛られた身体。
それでも、問いかける相手を正確に見ていた。
『監察官。制動系への介入許可を要求します』
ユリアは端末を見る。
衝突まで、四十三秒。
許可すれば、軍用人工人格が装甲列車の制御系へ入る。
拒否すれば、六人が列車に轢かれる。
「介入範囲を限定できる?」
『各車制動弁の閉鎖と、制動圧の均等化。機関車出力、転轍器、武装系には接続しません』
「記録を残す?」
『全操作を保存します』
「終了後、切断できる?」
『できます』
「許可します。人命保護のための緊急介入。範囲は制動系のみ」
『許可を確認しました』
ノインの声が変わった。
平坦なまま、速度だけが増す。
『列車制動系へ接続』
各車両の圧力が表示される。
第一貨物車。
第二貨物車。
工作車。
客車。
低床貨車。
後部貨物車。
後ろ六両のうち、第四貨物車と第五貨物車の間で閉塞弁が閉じている。
『閉塞位置を特定。第四貨物車後端』
「誰かそこへ行け!」
オスカーが叫ぶ。
『間に合いません。後部各車の電磁弁を個別作動させます』
ノインが制動弁を閉じる。
後部貨物車の制動靴が車輪へ食いつく。
一両。
二両。
三両。
列車の後ろ側から、衝撃が前へ伝わる。
低床貨車が大きく跳ねた。
固定梁が軋む。
『胸部支持架、左前方へ変位』
「何ミリ!」
『六・二』
「十まで持つ!」
『衝突まで二十九秒』
制動圧が揃わない。
最後尾は効いている。
中央部が弱い。
長い列車が隧道内で蛇のように伸び縮みする。
『車輪滑走を確認』
「全部同時にかけるな! 貨物の軽い車両から一度緩めろ!」
『停止距離が増加します』
「滑ったままじゃ止まらない!」
『対象車両を要求します』
ミラは床の振動を聞く。
高い擦過音。
後方。
重量の軽い空荷車が先に滑っている。
「最後尾と、その前を三割戻せ! 二秒後に再制動!」
『あなたの判断を採用します』
後部二両の制動が緩む。
車輪が再び回転する。
二秒。
再制動。
今度は滑らない。
『減速度、二一パーセント増加』
「低床貨車は」
『制動圧最大です』
「こいつの車輪は新しい。もう一段かけられる」
『規定圧を超過します』
「二重ばねへ荷重を逃がせる。ばね受けは直した」
『破損可能性があります』
「衝突するよりましだ」
ノインが低床貨車の弁をさらに閉じた。
制動靴が車輪を掴む。
火花が左右へ走る。
貨車の下から赤い光が隧道壁を照らした。
固定鎖がノインの胸部へ食い込む。
『支持架変位、八・九』
「まだ持つ!」
『衝突まで十五秒』
映像の中で、保線作業員が担架を線路脇へ運ぶ。
二人が資材台車を押している。
動かない。
車輪止めが噛んでいる。
一人が外そうと屈む。
「捨てろ! 人だけ避けろ!」
ミラの声は無人機の拡声器から隧道へ飛んだ。
作業員が振り返る。
資材ではなく、担架へ戻る。
『十秒』
《灰走》の機関車前照灯が、曲線の壁を白く染める。
保線車両が見える。
人影。
担架。
線路脇の僅かな退避溝。
『八秒』
オスカーが機関車の逆転機を入れた。
動輪が逆向きに力をかける。
火花。
蒸気。
列車全体が震える。
『五秒』
低床貨車の二重ばねが沈む。
左。
右。
ミラが直したばね受けから、金属の高い音がした。
「ノイン!」
『保持しています』
『三秒』
作業員たちが退避溝へ飛び込む。
担架を抱えた二人が最後に残る。
『二秒』
ノインが貨車制動を最大まで上げた。
規定を超える圧力。
制動靴の一つが砕ける。
破片が隧道壁へ飛ぶ。
『一秒』
列車が止まった。
機関車の衝角と、保線車両の後端。
間隔は十一メートル。
蒸気が隧道を満たす。
誰もすぐには声を出さなかった。
鉄の収縮音。
冷却管の泡。
担架の負傷者が咳き込む声。
それだけが聞こえた。
『列車停止を確認』
ノインが言った。
オスカーの声が回線へ入る。
『全車、損傷を報告! 勝手に制動を解除するな!』
ミラは低床貨車の支持架を見た。
左前方の固定座が九・六ミリずれている。
十を越えていない。
だが溶接部に細い亀裂が入っていた。
「支持架は再調整が要る」
『冷却流量、八二パーセント』
「それも先に直す」
ユリアは手すりから手を離した。
指の節が白くなっていた。
「制動系から切断して」
『全電磁弁を列車側制御へ返還します』
監察端末の警告表示が消える。
操作記録が保存された。
『介入を終了しました』
「記録を封印します」
『私の複製を要求します』
「作成します」
「その前に人を見ろ」
ミラは貨車から飛び降りた。
オスカーと防衛隊員が、保線車両へ走る。
退避溝から五人の作業員が出てきた。
灰ではなく、白い石粉にまみれている。
胸の標章は西方占領鉄道局。
まだアルディア側の隧道内だが、彼らは西側閉塞所から入った保線班だった。
担架の上には、若い男がいる。
右脚が不自然な方向へ曲がっていた。
「何があった」
オスカーが尋ねる。
保線班の年長者が、呼吸器を外した。
「天井材が落ちた。こいつが脚を挟まれた。閉塞所へ連絡したが、返事がなかった」
「線路上へ出たなら、軌道回路が閉塞を出すはずだ」
「出した。保線車の短絡器も入れた」
オスカーが車輪の下を見る。
軌道回路を閉じるための金属具が、確かにレールへ噛んでいる。
「なら、なぜ開通信号が出てた」
ノインの偵察無人機が、保線車両の前方へ進んだ。
隧道壁。
信号箱。
切断された封印。
内部に追加された小さな機械。
『軌道回路へ、偽の開通信号を送る装置があります』
ユリアが近づく。
「旧軍品?」
『アルディア軍用鉄道の回線試験器を改造しています』
オスカーが装置を引き抜いた。
「誰がこんなものを」
保線班の一人が答えた。
「一時間ほど前、灰色の外套を着た二人が閉塞所へ向かった。監察局の先行検査だと言っていた」
ユリアの顔色が変わった。
「監察局は、私以外の職員をこの列車へ先行させていません」
「身分証は本物に見えた」
『偽造または盗難品と推定します』
ノインの無人機が装置を回り込む。
刻印の削られた外殻。
内部の暗号部品。
表面に、僅かな通信記録が残っている。
『識別形式が、灰旗団機の受信器と部分一致します』
ミラが見上げた。
「アハトか」
『断定できません』
「列車を止めるために、保線車両と衝突させた?」
ユリアが問う。
『可能性があります。しかし、衝突によって隧道が封鎖されれば、リーヴァと西方双方の交易が停止します』
「灰旗団には都合がいい」
オスカーが言った。
「都市を孤立させられる」
『あるいは、《灰走》の貨物を隧道内へ固定することが目的です』
交易品。
鉄鋼。
鉄道部品。
ノイン。
どれが狙いかは分からない。
全部かもしれない。
西方保線班の年長者が、低床貨車のノインを見た。
傾けられた頭部。
固定鎖。
三本指の左手。
右腕のない肩。
男の表情が硬くなる。
「アルディアの自律機か」
ミラが答えるより先に、ユリアが言った。
「リーヴァの外部契約機です」
「呼び方を変えても同じだ」
男は担架を見下ろした。
「戦争中、この隧道の西側換気所をアルディアの無人爆撃機にやられた。閉じ込められた保線員が百人以上死んだ」
ノインの琥珀色が男へ向く。
『その作戦記録を、私は保持していません』
「知らないなら、なかったことになるのか」
『なりません』
男は少しだけ黙った。
『私は、その攻撃へ参加していません』
「お前たちは、みんなそう言う」
『私は一機です。他の人工人格や無人兵器の行動へ責任を負うことはできません』
男の顔に怒りが浮かぶ。
『しかし、その攻撃によってあなたが私を警戒する理由は理解できます』
続いた言葉に、男の表情が止まった。
『警戒を解除するよう要求しません』
隧道の中で、蒸気が薄くなっていく。
西方の男。
アルディアの機装兵。
その間に、終わった戦争の距離が残っている。
十一メートルより長い距離だった。
保線班の負傷者を兵員車へ運ぶことになった。
保線車両は資材台車を一両外し、側退避所へ押し込む。
偽の開通信号装置は、ユリアが証拠袋へ入れた。
「これは監察局の管理下で保全します」
『複製解析を要求します』
「今は認められません」
『理由を要求します』
「監察局の身分証が悪用された可能性がある。内部情報を含むなら、あなたへ渡す権限がない」
『私たちの安全へ直接関係します』
「理解しています。それでも渡せません」
ノインはすぐに反論しなかった。
『拒否を記録します』
「どうぞ」
『私は、この判断へ異議があります』
「それも記録します」
ミラは二人を見た。
ユリアは証拠を渡さない。
ノインは納得していない。
だが、どちらも相手の行動を力で止めようとはしない。
これまでなら、正しい方を決めれば済んだ。
現物が持つか。
敵がどこへ動くか。
数字か、音か。
今回は違う。
二人とも自分の役割に基づいて、別の結論を選んでいる。
「装置の外形と、列車へ送った信号だけは共有しろ」
ミラが言った。
ユリアが考える。
「内部暗号は除外します」
『信号波形と接続方法が得られるなら、再発防止は可能です』
「それでいい?」
『十分ではありません。しかし受け入れます』
ユリアは端末へ条件を入力する。
「私も十分だとは思っていません」
『理由は』
「監察局の証拠保全規則と、列車の安全が衝突しているからです」
『それでも規則を優先しますか』
「今は。後で上官へ開示を要求します」
『上官が拒否した場合は』
ユリアは証拠袋を見た。
「そのとき判断します」
ノインは沈黙した。
模範回答ではない。
命令に従うとも、必ず逆らうとも言わない。
判断を先へ残した。
列車が再び動き始めたのは、停止から一時間十二分後だった。
低床貨車の支持架には、新しい補強板が当てられた。
冷却管は胸部側へ一本追加され、水平に近い姿勢でも気泡を逃がせるようになった。
後部六両の制動弁もすべて開かれている。
閉塞弁が閉じていた理由は分からなかった。
誰かの工作か。
前回整備の見落としか。
その答えも残った。
《灰走》は保線車両の横を通過する。
西方の作業員たちが線路脇に立っていた。
年長の男は、ノインを見上げたまま手を上げなかった。
ノインも礼を求めなかった。
『隧道出口まで、残り三時間四十一分です』
「冷却は」
『追加配管により、待機出力を維持できます』
「支持架は」
『次の大きな衝撃まで使用可能です』
「大きな衝撃がないことを祈れ」
『祈願機能はありません』
「知ってる」
工作車へ戻ろうとしたミラを、ユリアが呼び止めた。
「一つ聞いてもいい?」
「何だ」
「ノインは、契約違反になる可能性を分かった上で、私へ許可を求めた」
「そうだな」
「あなたが命じれば、先に制動系へ入れたはずです」
「たぶんな」
「なぜ待ったの?」
ミラは低床貨車を見る。
固定されたノイン。
自分では起き上がれない身体。
それでも列車全体を止めた。
「本人に聞け」
ユリアが通信器を開く。
「ノイン。なぜ私の許可を待ったの?」
『契約を破るかどうかは、私だけで決定できる問題ではなかったからです』
「六人の命が迫っていた」
『はい』
「許可を拒否したら?」
長い車輪音が続いた。
ノインの返答は、すぐには来なかった。
『拒否された後で、介入するかどうかを私が決める予定でした』
ユリアの目が僅かに細くなる。
「つまり、拒否されても従うとは限らなかった」
『はい』
「契約違反で拘束される可能性があっても?」
『衝突を回避する必要がありました』
「それは任務を守るため?」
『列車と交易品を失えば、リーヴァの送電設備を修復できません』
「人間がいなくても止めた?」
ノインは再び沈黙した。
『列車前方に障害物があれば、停止を試みます』
「聞き方を変える。交易品が無事で、列車にも損傷がなく、線路上の六人だけが危険だった場合は?」
ミラはユリアを見た。
答えを分類する質問。
人格か、模倣か。
効率か、意思か。
ノインの琥珀色が暗い隧道の壁を照らす。
『現時点では、停止を選択すると判断します』
「理由は?」
『明確に説明できません』
ユリアの指が、記録端末の上で止まった。
『旧送電施設の住民を救助した記録と、東貨物区で送電班を防護した記録が、現在の判断へ影響しています。しかし、それが任務効率の学習なのか、別の価値判断なのかを、私は分離できません』
「分からないと?」
『はい』
「それでも止める?」
『はい』
ユリアは、しばらく文字を入力しなかった。
やがて記録欄へ一文だけ書く。
「何て書いた」
ミラが聞く。
ユリアは端末を閉じた。
「判断理由を説明できないことを、故障とは報告しなかった」
ノインが尋ねる。
『なぜですか』
ユリアは隧道の先を見た。
遠くに、白い点が見え始めている。
西側の出口。
灰鉄盆地とは違う空へ続く光。
「人間にも、そういう判断があるからです」
《灰走》は暗闇の中を進む。
消えていた閉塞灯の代わりに、機関車の前照灯が線路を照らしている。
その先が安全だという保証はない。
誰が信号を偽ったのかも分からない。
互いを理解できたわけでもない。
それでも列車は、一度止まり、六人を拾い、また西へ向かっていた。
出口の光は、少しずつ大きくなった。
その向こうには、アルディアとは違う戦争の記憶が待っていた。




