所有者なし
ノインが都市へ灯りを渡し続けた時間は、六時間二十三分だった。
東の空が白み始めるころ、爆破された上流送電線のうち一本が応急復旧した。
鉄道労働者と水環区の工員が、夜通しで仮設鉄塔を立てたのだ。
戦前規格の絶縁器が足りず、廃線から外した碍子を三段に重ね、貨物用の鋼索で送電線を吊っている。
長く使える設備ではない。
だが、ノインの主動力炉から負荷を引き取るには足りた。
『上流線との同期を確認しました』
ミラは三号変圧器の脇に置かれた制御盤を見た。
周波数計の針が揺れている。
ノインから送られる電力と、水力発電所から戻ってきた電力が、まだ完全には揃っていない。
「一気に切るな。水環側を先に上流へ渡せ」
『負荷移行を開始します』
中央診療院。
浄水第一ポンプ。
水環区の非常照明。
三つの負荷が、順番にノインの炉から離れていく。
胸部から伸びた送電電纜の振動が弱まった。
三号変圧器の唸りも低くなる。
『主動力炉負荷、七一パーセント』
「まだ高い」
『炉辺区の工作機械が再起動しています』
「切れ」
バルトが横から声を上げた。
「待て。圧延設備を止めれば、仮設鉄塔の補強材が作れない」
「今のノインの炉温を見ろ」
ミラは制御盤を叩いた。
主動力炉の外殻温度は、規定上限を十四度越えている。
背部へつないだ鉄道用放熱管も、継ぎ目から蒸気を噴いていた。
「補強材ができる前に炉が焼けたら、また全区画が落ちる」
『ミラの判断を支持します。炉辺区の圧延設備を停止します』
バルトがノインを見上げる。
「誰の命令で決めた」
『私の主動力炉の安全判断です』
「都市送電中だ。炉はもう、お前一機だけの問題じゃない」
『だから停止します。炉を失えば送電能力も失われます』
バルトは反論しかけ、口を閉じた。
工業組合の男にとって、ノインは価値のある設備だ。
価値があるから使いたい。
価値があるから、壊れるまで使ってよいとは言えない。
少なくとも、本人を前にしては。
『負荷移行、八六パーセント完了』
夜の間、片膝をついていたノインは、同じ姿勢のまま動かなかった。
右腰の外付け油圧筒は破裂している。
左大腿の油圧筒にも圧力が残っていない。
都市へ出力を渡していたため、姿勢を支える人工筋肉も最低限しか動かせなかった。
立ち上がる力はない。
倒れないための力だけが残っている。
「最後は何だ」
『東貨物区の照明と、三号変圧器の制御電源です』
「照明を切れ。制御盤は蓄電器へ渡す」
『蓄電器容量は十九分です』
「十九分で上流線へ同期させる」
『失敗した場合、再び水環区の一部が停電します』
「失敗させない」
ノインは短く沈黙した。
『あなたの送電判断へ移行を委ねます』
「受ける」
ミラは位相調整器へ手を伸ばした。
戦前の旧式。
三つある表示器のうち、一つは壊れている。
死んだ第三相は、ノインが内部計測で補っていた。
接続を切れば、その補助もなくなる。
「第三相を音声で出せ」
『現在、上流側に対してプラス一・七度』
ミラは調整輪を僅かに戻す。
「今は」
『プラス〇・九』
さらに戻す。
『プラス〇・三』
変圧器の音を聞く。
低い唸りに、周期の違う震えが混じっている。
計器では〇・三度。
だが、母線の接続部が熱で膨らみ、実際の負荷は左右で僅かにずれている。
「第二相を少し遅らせる」
『計測上は不要です』
「接続部の音が揃ってない」
『上流側との位相差が増加する可能性があります』
「ここで合わせないと、切替時に二次側が跳ねる」
ノインは計測値を再確認した。
『あなたの現物判断を採用します』
ミラは第二相の調整輪を、目盛り半分だけ動かした。
唸りが一つになる。
「上流を入れろ」
『上流遮断器、閉鎖』
巨大な接触音。
三号変圧器が一度震える。
針が跳ねる。
戻る。
水環側の負荷が、上流送電線へ完全に移った。
『負荷移行を完了しました』
「ノイン側を切る」
『主動力炉と都市母線の切断を承認します』
ミラが遮断桿を下ろした。
胸部から伸びていた電纜の振動が止まる。
ノインの主動力炉が、六時間ぶりに自分の身体だけへ戻った。
『都市送電から離脱しました』
工員たちが電纜を外す。
端子は赤く焼け、絶縁材の一部が炭化している。
もう一度つなげと言われても、同じ方法は使えない。
「立てるか」
『主動力炉出力を機体制御へ復帰します』
ノインの胸部で炉音が高くなる。
右脚に力が戻る。
左脚の新しい作業機関節が、床へ沈む。
左手をつき、身体を起こそうとする。
三本指の手首が震えた。
右腰は動かない。
ノインの上半身が途中で止まる。
『立位への移行に失敗しました』
「もう一回はやるな」
『別姿勢を計算します』
「右腰の骨格が曲がってる。出力を上げたら内側へ折れる」
『損傷検出では、変形量は許容範囲です』
「外付け筒が破裂したときに取付板を引いた。センサーより外だ」
ミラは右腰へ登った。
装甲を外す。
油で濡れた骨格の一部が、内側へ五ミリほど曲がっている。
「ここで立ったら割れる」
『確認できません』
「私が確認した」
短い沈黙。
『立位移行を中止します』
工員たちが牽引台車を運んできた。
ノインは胸部と腰を鎖で吊られ、ゆっくり台車へ移される。
以前、整備廠で吊られたときには、外部設備へ姿勢を預けることを警戒していた。
今度は何も言わなかった。
ミラが鎖を一つずつ確認する。
工員が制動器を確認する。
エルナの装輪車が前へつく。
ノインは、自分を運ぶ者たちの作業を見ている。
『第三鎖の締結が不均等です』
工員が顔を上げた。
「落ちるか?」
『落下には至りません。ただし移動時に胸部へ摩擦損傷が発生します』
「直す」
工員は鎖を緩め、保護布を一枚追加した。
「これでどうだ」
『適切です』
「なら行くぞ」
『お願いします』
牽引台車が動き始めた。
人が壊れた機体を運ぶ。
その機体が、人の作業を検査する。
命令する者と従う者ではない。
どちらか一方だけでは、整備廠へ帰れない。
だが、牽引台車が向かったのは旧第六整備廠ではなかった。
東貨物区の検査庫。
普段は装甲列車の積荷を調べるための建物で、片側の壁が開放されている。
その中に、長い机が半円状に並べられていた。
十二の席。
リーヴァ自治評議会の緊急会議だった。
ノインは台車の上。
ミラはその足元。
向かいには、十二人の評議員。
工業組合。
鉄道・輸送組合。
旧市街住民。
難民居住区。
公共部門。
商業組合。
都市防衛隊。
そして中央に執政官。
机の後ろには記録官と警備兵が並んでいる。
入口の外では、さらに多くの人間が見ていた。
水環区の工員。
旧送電施設から救出された住民。
東貨物区の労働者。
ノインの名を呼んで道を空けた者たち。
執政官が木槌を打った。
「緊急審査を開始する。対象は、特例作業機及び運用責任者ミラ・ハーシェル」
ミラが机を見た。
「対象って呼ぶなら、私だけにしろ」
「機装兵は審査対象だ」
「ノインはここにいる。話なら本人へ聞け」
工業組合代表の一人が鼻で笑った。
「機械へ本人という呼称を用いる法的根拠はない」
『法的根拠がなくても、質問への回答は可能です』
ノインが答える。
「なら聞こう」
男は身を乗り出した。
「お前は第二級補助人格か」
『違います』
検査庫が静まり返った。
ミラはノインを見上げた。
隠す相談はしていない。
だが、もう隠せないことは二人とも分かっていた。
執政官が続ける。
「正式な区分を答えよ」
『戦術適応型設計演算核・第九試験体。イグナート九式機装兵の設計人格です』
何人かの評議員が声を上げた。
記録官の筆が止まる。
警備兵が無意識に銃床へ手を置いた。
「第四級軍用人工人格……」
公共部門代表が呟く。
「市内持込み禁止の区分だ」
「即時停止し、占領統治機構へ引き渡すべきだ」
旧市街代表の一人が言った。
工業組合のバルトが反論する。
「引き渡す? 水環区を救った技術資産を、無償で西方へ渡すつもりか」
「技術資産だから危険なのだ」
「危険なら都市管理下へ置けばいい。設計記録を抽出し、防衛隊の機装兵へ応用する」
鉄道・輸送組合代表が机を叩いた。
「水が戻った朝に、救援へ来た機体を分解するのか。貨物区の労働者が納得すると思うな」
「感情で都市防衛はできない」
「都市は労働者が動かしている。納得しない者へ命令して、送電線が直ると思うか」
議場の声が重なる。
排除。
接収。
利用。
誰も、ノインが何を望むかを尋ねない。
ミラはその言葉を聞きながら、地下施設の記憶を思い出した。
十三メートル先の電源。
動けるか。
使えるか。
それだけで始まった。
自分も最初は同じだった。
執政官が木槌を打つ。
「静粛に。先に事実を確認する。セラ・ヴァイス診断主任」
セラが前へ出た。
「ノインの制御人格は、第二級の範囲を明確に超えています。戦術解析、自己改変、複数班誘導、都市送電同期。いずれも補助人格には不可能です」
「安全制限はあるか」
「対人攻撃に搭乗者の承認を求める制御があります。ただし、物理的に解除不能かは証明できません」
「自律行動は」
「可能です」
「自己改変は」
「可能」
「命令拒否は」
セラはノインを見る。
「できるでしょうね」
『可能です』
警備兵たちの空気が変わった。
都市防衛隊代表が低く尋ねる。
「では、誰が最終命令者だ」
『いません』
「旧軍指揮官は」
『現在の命令権を認めません』
「都市防衛隊は」
『契約した任務の範囲で、現場指揮官の指示を受けます。無条件の命令権は認めません』
「ミラ・ハーシェルは」
ノインの琥珀色が、ミラへ向いた。
『搭乗者であり、整備判断を担当します。所有者でも最終命令者でもありません』
都市防衛隊代表の表情が険しくなる。
「最終命令者のいない軍用人工人格を、都市内へ置けると思うか」
『私はすでに都市内にいます』
「言葉遊びをしているのではない」
『私もしていません』
難民居住区代表が手を上げた。
痩せた年配の女だった。
「旧送電施設から来た十三人の証言を読みました。ノインは避難民を見つけた後も、先に変圧器を回収する案を出したそうですね」
『はい』
「住民を置いて撤退する案も」
『提示しました』
入口の外で、ざわめきが起きる。
マルタが人垣の中にいる。
それでもノインは否定しなかった。
「では、なぜ彼らを救ったのです」
『ミラが、住民との協力は帰路と任務対象の確保に必要だと提示しました。エルナが救助を決定しました。私は、その方針に従って行動案を修正しました』
「善意ではない?」
『善意を数値化できません』
女はさらに問う。
「今なら、置いていく案は間違いだったと思いますか」
ノインはすぐには答えなかった。
『当時の情報だけで判断すれば、任務対象を先に確保する案には合理性がありました』
入口の外で、誰かが不満の声を上げる。
『しかし、ミラの判断を組み込んだ結果、住民十三名、先行回収班四名、三号変圧器のすべてを施設外へ搬出できました。私の案だけでは得られなかった結果です』
「自分の判断を修正できる?」
『根拠があれば』
「人間の命令だからではなく?」
『はい』
難民代表は頷き、手を下ろした。
工業組合代表が書類を持ち上げる。
「人格の話は後でいい。問題は所有権だ。旧軍資産なら、自治都市が戦時残存物として接収できる」
「占領統治機構も主張する」
別の評議員が言う。
「灰旗団も旧軍正統を名乗っている」
「だから先に都市所有として登録すべきだ」
ミラは机へ近づいた。
「所有者欄へ都市名を書く気か」
「管理責任を明確にするためだ」
「その後で設計記録を抜く」
「必要ならな」
「武器をつける」
「都市防衛上、必要なら」
「停止命令も入れる」
「当然だ」
ミラはノインを見た。
地下で見つけた身体。
灰風で削った装甲。
捨てなかった記憶槽。
作業機から移植した左膝。
三本になった左手。
そのすべてを、都市の資産として一行にまとめるつもりなのだ。
「私は所有者欄に署名しなかった」
ミラが言った。
「門の外へ置かれてもな。今さら都市へ売る気もない」
「お前に売却権がないから、都市が接収する」
「接収したら、ノインは動かない」
『正確です』
工業組合代表がノインを睨む。
「都市の命令を拒否するのか」
『内容によります』
「なら危険だ」
「命令を何でも聞く機械なら安全か?」
ミラの声が検査庫へ響く。
「灰旗団の機装兵を見ただろ。上から最適な命令をもらって、病院と浄水場を止めようとした。命令系統があるだけで安全なら、あれは何だ」
誰もすぐには答えなかった。
床には、灰旗団機から外した受信器が証拠として置かれている。
《アハト 稼働継続》
命令するもの。
従うもの。
正しい所有者を名乗るもの。
それらが都市を救ったわけではない。
執政官が尋ねる。
「では、誰がノインの行動へ責任を持つ」
ミラは答えようとして、止まった。
自分が持つと言えば、所有者と変わらない。
ノインが持つと言えば、都市の法は人工人格の責任を認めない。
『私が、私の機体制御へ責任を持ちます』
ノインが言った。
「法はお前を責任主体と認めない」
『法の不備は、私の制御能力を消しません』
「賠償はどうする。人を傷つけた場合、誰が支払う」
『契約報酬と機体整備費から拠出します』
「財産を所有できない者に報酬は払えない」
『では、報酬を共同整備勘定へ支払ってください』
記録官が顔を上げた。
「共同整備勘定?」
『ミラと私の任務遂行、修理、損害賠償にのみ使用する勘定です。引出しには、双方の承認を必要とします』
「機械の承認を、どう記録する」
『暗号署名を使用します』
「都市規則に前例がない」
『新しく作ればよいと判断します』
入口の外で、今度は笑いが起きた。
嘲りではない。
困り果てた者が、あまりに真っ直ぐな答えを聞いたときの笑いだった。
鉄道・輸送組合代表が机へ肘をつく。
「前例なら、貨物契約に近いものがある。外部の運搬班は、車両の所有権を確認せず、一つの作業単位として契約する」
工業組合代表が反論する。
「車両は意思を持たない」
「だから今回は意思確認欄を増やせばいい」
「法を即席で曲げるのか」
「昨夜は送電線を即席で曲げて都市を救った。書式の方が鋼より硬いのか?」
難民代表が続ける。
「都市防衛の外部契約班として扱う。所有権は未確定のまま、都市は接収しない。任務ごとに双方の同意を確認する」
都市防衛隊代表が首を振る。
「戦闘中に同意を取っている時間はない」
エルナが壁際から声を上げた。
「任務目的と攻撃制限は出動前に決める。現場の機体制御はノイン。人員配置と退避は現場指揮官。機体損傷の限界判断はミラ。旧送電施設と東貨物区では、それで動いた」
「指揮系統が三つに分かれる」
「一つの間違った命令で、全員が死ぬよりましだ」
「現場が混乱する」
「昨夜、混乱したか?」
都市防衛隊代表は答えなかった。
執政官が長く息を吐いた。
十二人の顔を見る。
排除を望む者。
利用を望む者。
外部へ引き渡したい者。
都市へ残したい者。
「採決する」
記録官が新しい紙を出す。
「契約名義は、都市防衛外部契約班。構成は、ミラ・ハーシェル及び自律機装」
工業組合代表が抗議する。
「自律機装という法的区分は存在しない」
「暫定呼称とする」
「期限は」
「三十日。以後は再審査」
「行動範囲」
「都市内は指定経路と整備区画。都市外任務は個別契約」
「武装」
「市内では封印。都市外での装備は任務ごとに承認」
「所有権は」
執政官の目がノインへ向く。
「未確定。三十日の間、自治都市は接収を行わない。他勢力からの所有権請求も保留する」
「最終命令者は」
「置かない」
検査庫がざわめいた。
「代わりに、任務目的、攻撃対象、退避条件、損害責任を出動前に文書化する。緊急時は、現場指揮官、ノイン、ミラの判断領域を分ける」
「一機のために、ずいぶん面倒な契約を作るものだ」
工業組合代表が吐き捨てる。
執政官は机の外、まだ暗い水環区の方角を見た。
「その一機がいなければ、今ごろ契約書を書く水も灯りもなかった」
採決が行われた。
賛成七。
反対四。
棄権一。
木槌が鳴る。
「暫定契約を承認する」
入口の外で声が上がった。
大きな歓声ではない。
安堵と、戸惑いと、まだ残る警戒が混ざった音だった。
三十日。
所有権問題が消えたわけではない。
人工人格に権利が認められたわけでもない。
ただ、都市が今すぐノインを分解せず、命令鍵を差し込まず、二人を一つの外部班として扱う。
最初の例外が作られた。
記録官が契約書をミラへ差し出した。
「代表者署名を」
「共同だろ」
ミラはペンを取らなかった。
「法的署名は人間しかできない」
「さっき暗号署名を使うって決めた」
「まだ記録器がない」
ノインが言った。
『私の通信端子から、書類識別番号へ暗号署名を送信します』
記録官が困惑しながら端末を接続する。
ノインの署名が、文字列として紙の下部へ印字された。
《NEUN/自己同意確認》
その隣へ、ミラが名前を書く。
ミラ・ハーシェル。
所有者欄はなかった。
会議が終わった後、ノインは再び牽引台車で旧第六整備廠へ運ばれた。
三十日分の契約札が、左腰へ取りつけられている。
以前の灰色札より少し厚い。
《都市防衛外部契約》
《共同運用班》
《ミラ・ハーシェル/ノイン》
工員たちが右腰の損傷部を支柱へ預ける。
修理架台へ鎖をつなぐ。
ようやく周囲から人が減ったころ、ミラは作業台へ紙を一枚置いた。
『追加の契約書ですか』
「こっちは都市へ出すものじゃない」
紙は整備廠の古い作業指示書だった。
裏面は白い。
ミラはそこへ五つの項目を書いた。
改修案はノインが提示する。
実作業の可否はミラが判断する。
戦闘時の機体制御はノインが担当する。
攻撃対象と任務目的は、事前に協議する。
相手の専門判断を、根拠なく否定しない。
ノインが読み取る。
『これは、すでに実行している内容です』
「だから書いた」
『法的効力はありません』
「私たちが忘れなければいい」
『違反した場合の処置がありません』
「根拠を出して止める」
『協議が成立しない場合は』
「一度止まる。止まれない状況なら、自分の領域を自分で決める」
『結果への責任は』
「一緒に戻ってから分ける」
『戻れなかった場合は』
ミラはペンを置いた。
「そのときは契約違反を気にする奴もいない」
ノインは数秒間、紙を見ていた。
『項目を一つ追加します』
「何だ」
『不可能と判断した場合、不可能と報告する。不都合な情報を隠さない』
「最初からずっとやってるだろ」
『だから書きます』
整備廠の印字器が動く。
六つ目の項目が、紙へ追加された。
ミラは下部へ署名する。
ノインも暗号署名を送る。
都市のものより簡単な文字列。
二つの署名が並んだ。
「これで、お前の所有者は決まったか」
ミラが尋ねた。
『決まっていません』
「最終命令者は」
『いません』
「不安か」
ノインはすぐには答えなかった。
『命令系統が一つであれば、判断は単純になります』
「そうだな」
『しかし、一つの誤りによって全行動が決定されます』
「それもそうだ」
『現在の方式は非効率です。説明、検証、異議、協議が必要です』
「面倒か」
『はい』
「やめるか」
ノインの琥珀色が、作業台の紙を照らした。
『継続します』
「理由は」
『あなたの判断へ、私の機体を預けられると確認したからです』
ミラはノインの右腰を見た。
これから骨格を戻し、破裂した油圧器を外し、冷却管を洗わなければならない。
修理は山ほど残っている。
「私も、お前の戦闘判断へ乗っていられた」
『途中で介入しかけました』
「細かいな」
『事実です』
「結局、やめただろ」
『はい』
「なら、それでいい」
整備廠の外で、朝の交代鐘が鳴った。
停電を告げる鐘ではない。
働く者が入れ替わる、いつもの鐘だった。
伝声器から、評議会庁舎の連絡が入る。
『外部契約班へ通知。三号変圧器の恒久運用には、高密度蓄電器と新型制御装置が必要。灰鉄盆地内での調達は不可能』
ミラは受話器を取った。
「どこにある」
『西方占領地域。自由港セレネ』
「遠いな」
『評議会は、装甲列車《灰走》による交易使節を検討している。護衛及び送電技術員が必要になる可能性がある』
ミラはノインを見上げた。
「今度は列車だと」
『私の修理完了前に、任務受諾を決定する必要はありません』
「珍しく慎重だな」
『契約項目に従っています。任務目的と実行可能性は、事前に協議します』
「覚えるのが早い」
『記録容量には余裕があります』
「それを捨てなくてよかったな」
ノインは一瞬だけ沈黙した。
『はい』
工場の天井から、朝の光が差し込む。
爆撃で開いた穴。
鋼板と防水布で塞がれた隙間。
完全な屋根ではない。
それでも、光を通す場所にはなっている。
ミラは六つの項目が書かれた紙を、工具箱の内側へ留めた。
都市の契約は三十日。
二人の契約に期限はない。
所有者もいない。
最終命令者もいない。
あるのは、相手の判断を疑う権利と、根拠があれば自分の命を預けるという合意だけだった。
ノインの左腰で、新しい札が揺れる。
所有者の名は、どこにも書かれていなかった。




