31 「皇女殿下の香り」
ふわ…っと甘い香りがした。
顔を上げると、皇女殿下が私の前を横切るところで。
「……。」
セリムの花の香水は、すっかり「皇女殿下の香り」として城内に定着していた。
やはり教会を思い浮かべるのか、「セレスティア様にぴったりですね」と褒める者も増えたようだ。
華やかで甘く、それでいてしつこくない。
心地よさに、こちらからもっともっとと求めてしまうような…。
確かに、彼女のイメージにぴったりだと思う。
「(……ハマりすぎるくらいだわ…)」
女神の愛した花の香りを身に纏う
“女神の生まれ変わり”の少女、セレスティア。
それは、常に彼女は教会と共にあるのだという強烈なメッセージのように感じられた。
あの絵本と同じだ。
他者の印象から、彼女を教会に縛り付けようとしているような、そんな嫌な感覚が拭えない。
もっとも、本人が気に入って使っている以上、私が口を挟む余地はどこにもないのだけれど。
正確な差出人すら分からない贈り物。
どうしても、何かが胸の奥につかえていた。
「なんだかご機嫌ですね」
そう声をかけると、皇女殿下は嬉しそうに胸元に抱いていた一通の手紙を見せてくれた。
白い封筒に、赤い封蝋。捺された印は剣と鷲のモチーフ。
「皇太子殿下から?」
「ええ。この前のお返事をくださったみたい」
とろけるような笑顔で言い、丁寧な手付きで封を開く。
青い瞳がゆっくりと文字を追い、幸せを噛み締めるように時折頬が緩む。
ラブレターをもらった恋する女の子のようで、とても可愛い。
「ケーキも、とても美味しかったって。
甘すぎなくて食べやすかったって書いてあるわ」
抜粋してそう読み上げる皇女殿下。
ひとまず、“真理恵”に関して触れられている気配はなくてほっとする。
「恐れ入ります」と頭を下げると、彼女は「今度は私にも同じケーキを焼いてね」と笑った。
“カタンッ”
何かが倒れる音と一緒に、「あっ」と小さく声が上がった。
「殿下?」
「ごめんなさい…!インク瓶を倒しちゃったのよ」
慌てて文机の上の書類を避ける彼女に、マリアさんが「大丈夫ですよ」と、すいっと人差し指を振る。
机の上に広がった黒いインクは吸い込まれるように瓶の中へ戻っていった。思わず「わぁ」と声が漏れる。風魔法と水魔法の応用だろうか。
「念の為、お掃除はしましょうか。お道具持ってきますね」
あっという間に事態を収束させるマリアさんに、2人で顔を見合わせる。
「殿下は大丈夫ですか?」
「ええ…なんだか少し、手元が狂ってしまって」
「慌てなくても、殿下はちゃんとお返事も受け取ってくださいますよ」
「もう……ルルリエったら意地悪ね」
ほんのり頬を染める彼女が愛らしい。
「笑わぬ皇女」と呼ばれた彼女の片鱗は、もうほとんど見えなくなった。
***
「喉が渇いちゃった。お茶を入れてくれる?」
「かしこまりました」
マリアに続いてルルリエが退出したことを確認し、セレスティアは再び手紙を取り出した。
先ほどは口に出さなかった2枚目の便箋に、再び目を通す。
―――
追伸
本当なら、もっと気軽に文を交わし、昔のように言葉を交わせたらと思う。
だが今は、立場や周囲の目もあって、すぐにそれを望むことはできない。
皇室に介入させる口実を、今は作ってはならない。
気を揉ませてしまうかもしれないが、しばらくは表立っては今のままの距離を保たせてほしい。
――けれど、妹を思う気持ちは変わらない。
それだけは信じていてくれたら嬉しい。
愛しているよ
女神セリシアの御手が、あなたの心を守り続けますように
アレシオ・ルミエステ
―――
兄の心遣いも、立場的な苦しさも分かっている。
それでも、こうして言葉が届くだけでこんなにも救われた気持ちになるのだと知った。
「ありがとう、兄様」
ふふ、と小さく笑い、手紙を胸に抱きしめた。
文机の上で。
陽の光を浴びた香水瓶がキラキラと輝いていた。




