29 差出人不明の贈り物
孤児院への慰問から数日後、皇女殿下宛に小さなプレゼントが届いた。
「慰問のお礼ですって」
今まで一度もそんなことなかったのに、と不思議そうにしながらも、殿下はリボンを解いていく。
薄紫色の包装に、金色で教会の印が施された小さな小箱。
差出人の名前はない。
けれど、仄かに漂う甘い香りが、教会を想起させる。
箱の中に収められていたのは、繊細な金の細工の施された美しい硝子の香水瓶だった。
ぐるりと瓶を囲むように金細工が蔦を描き、小さな宝石や真珠で花を思わせる装飾がされている。
傾けると、ラベンダーのような淡い紫色の液体がキラキラと輝いていた。
私が見ても、皇女に贈られるに相応しい一品だった。
「綺麗…」
小さく、感嘆するような声が漏れる。
皇女殿下は小瓶の栓をそっと抜くと、透明な雫をほんのわずか指先に移した。
白磁のように細い手首へ、ためらいがちにその雫を乗せる。
瞬く間に、淡い花の香りがふわりと立ちのぼり、空気をやわらかく染めた。
皇女殿下は手首を顔へ近づけて、目を細める。
「……いい香りね」
セリムの花の香りだった。
品がありながらも艶っぽいその仕草に、香りも相まってどきっとしてしまう。
添えられた手紙には、慰問への感謝と、お礼の品としてセリムの香水を贈る旨が書かれていた。
ーーぜひ愛用してもらえれば嬉しい、と。
「お礼をお伝えしなきゃね。ルルリエ、便箋を取ってくれる?」
「はい、殿下」
言われた通りに便箋を渡しながら、ふと思う。
「差出人は、先日の孤児院ですか?」
「さぁ……詳しくは書いていないわ。教会の関係者だと思うけど…」
どうして?と首を傾げる彼女に、なんでもないと曖昧に首を振る。
なんでもない。そう、なんでもないのだ。
ただ少しだけ、引っかかるだけ。
セリムの香りも。
修道女の慈愛に満ちた眼差しも。
教会の、女神に対する信仰も。
なんでもないことなのに。
どうしてこんなにも、胸騒ぎがするのだろう。
***
「そういえば、そろそろ皇太子殿下の生誕祭ですね」
皇女殿下とマリアさんとのティータイム。
雑談のつもりだったのだが、殿下は露骨に顔をしかめて嫌そうな顔をした。
隣でマリアさんが苦笑する。
「えっと…変なこと言いましたか…?」
「……嫌いなのよね、あの行事」
「えっ?」
びっくりした私の表情に何かを察したのだろう、殿下は慌てて「あっ、兄様が嫌いとかじゃなくて…」と言葉を続ける。
「皇室の求める“皇女”を演じるのが、嫌いなの」
皇女たるもの皇室の「微笑み」と「和平」の象徴であれ。
微笑み、寄り添い、慈しむことこそ皇女の美徳である。
生まれたときから何度も言い聞かされたのであろう言葉を、殿下は無感情に諳んじた。
「お父様や兄様の後ろで、何を言われても黙って笑って座ってろ、ってことよ」
そんなの、人形と同じじゃない、と不満げに呟く。
その様子に、私はマリアさんと顔を見合わせた。
以前彼女が口にした「女神の器」という言葉を思い出す。あれは確か、神殿から帰ってきた後だ。
教会にしろ、皇室にしろ、個人の人格や思想より、立場や格式を重んじる傾向にあるらしい。
「私たちにとっては、かけがえのないたったお一人の主ですよ」
「ありがとう。そんなこと言ってくれるのは、マリアとルルリエだけよ」
困ったように微笑んで、殿下は口元にティーカップを運ぶ。
一息つくと、悩ましげに首を傾げる仕草をした。
「…生誕祭のお役目は、好きじゃないんだけど…。お誕生日だから、お祝い…したくて」
無意識なのか、指先が胸元で揺れるペンダントの縁を撫でる。
「今年は、兄様に何を贈ったらいいかしら…」
「ふふ、そうですね。せっかく殿下からペンダントもいただいたのですから」
ニコニコと微笑むマリアさんに、皇女殿下は徐々に耳元まで赤く染まっていった。
毎朝、殿下が大切そうに、嬉しそうに身につけているのを、私も彼女もよく知っている。
「お手紙はいかがですか?一番お気持ちは伝わるかと」
「……そうね……」
赤い顔のまま、両手で口元を覆う殿下。
なんだか恋する女の子みたいで可愛らしい。
実際、15年も片思いをし続けた相手が突然反応してきて動揺してるってところなのだろうけれど…。
この10年ほどは、毎年形式的に花束を贈るだけだったようで、今更何を贈ればいいのか決めかねているようだった。
「じゃあ、お手紙と一緒にルルリエのお菓子も添えたらどうかしら」
「私ですか?」
「ええ。あなたのお菓子、とっても美味しいもの」
マリアさんの提案に、パッと皇女殿下がこちらへと視線を向けた。
期待の込められた眼差しになんだか懐かしさを覚えて、胸が詰まるような感覚になる。
…正直ほんの少し、躊躇している自分もいるのだ。
当時8歳だったセレスティアならともかく、彼に私の作ったものを食べてもらうことに。
味覚は、時に何よりも強烈に記憶を引き出すから。
ルルリエが真理恵と関係している。
それを勘繰られそうで怖かった。
「……いいですよ、じゃあ何にしましょうか」
ーーそれでも、今の私が彼女の期待を裏切ることもやっぱりしたくなくて。
記憶の綱を渡るような感覚。
もし足を滑らせたら、私はどうなるのだろう。
私の返答に、皇女殿下はほっとしたように微笑んだ。
甘い甘い、セリムの花の香りがする。




