第90話 王宮へ届いた二通の報告
数日後、クラウス王太子の執務机に、二通の報告が届いた。
一通は、王宮行事の運営に関する正式な記録。
もう一通は、学院の生徒たちの振る舞いを問題視する匿名の意見書だった。
クラウスは二通を並べ、窓から差す朝の光の中で読み比べた。
正式記録には、控室の名簿に食い違いがあったこと、担当者の確認によって役割が整理されたこと、式典が大きな混乱なく終わったことが書かれている。
一方の意見書は、ベルクハルト伯爵令嬢が周囲の忠告を退け、独断で行動したと主張していた。
「同じ日の出来事とは思えないな」
クラウスが呟くと、側近が慎重に答えた。
「どちらを重く見るべきでしょうか」
「まず、誰が何を確認したのかだ。評価はそのあとでいい」
クラウスは名簿の版番号を指した。
「ここが途中で変わっている。変更を指示した者の記録がない」
「調査いたしますか」
「静かに確認してくれ。生徒たちを不必要に巻き込むな」
命令を受けたのは、宰相府に籍を置くユリウス・フォン・リーデンだった。公爵家の三男で、学院時代からクラウスに仕える気心の知れた一人である。
「儀典局の控えは私が照合します。学院側の生徒に直接問い合わせることはいたしません」
「頼む。ユリウス、記録の誤りと人の悪意を、最初から同じものとして扱わないでくれ」
「承知しております、殿下。ヴィクトル先輩にも昔、似たことを言われました」
その名にクラウスの口元が緩む。だが二人とも、ここで私的な助言を求めるつもりはなかった。王宮の記録は、正式な担当者が責任を持って扱うべきものだった。
扉がノックされ、ヴィクトリアが入ってきた。
「セレスティーヌ様のことですか」
「君の耳にも入っているんだね」
「ええ。わたくしは、あの日の控室におりました」
ヴィクトリアは見たことだけを話した。
セレスティーヌが確認を求めたこと。友人たちが自分の役割を果たしたこと。イザベラとの会話で、声を荒らげる者はいなかったこと。
「彼女は、ただ自分の仕事をしたかったのだと思います」
クラウスは頷いた。
「フェリクスにも、事実を確かめずに判断しないよう伝えよう」
「聞いてくださればよいのですが」
その言葉に、クラウスは苦い笑みを浮かべた。
同じころ、学院ではセレスティーヌが父からの返書を受け取っていた。
『話してくれてありがとう。おまえが何を考え、何を選んだのかを知ることができた。すぐに答えを出す必要はない。困ったときは、いつでも知らせなさい』
短い手紙だった。
けれど、読み終えたセレスティーヌは、しばらく動けなかった。
その後、彼女は庭でエレナたちと合流した。
「今日は、少し顔色がいいね」
エレナが言う。
「ええ。家から手紙が届きましたの」
「よかった」
フィオナが笑い、ノエルは温かい茶を勧めた。
ミレイユが新しい布地の見本を広げると、エレナは早速、訓練用の丈夫な袖口について話し始めた。
「ねえ、それって剣を振りやすくできる?」
「エレナ、あなたは何でも剣の話にするのね」
笑い声が庭に広がる。
セレスティーヌはその輪の中で、ようやく肩の力を抜いた。
王宮で報告書が読まれていた同じ夕方、学院では小規模な護衛演習が行われた。二方向から迫る訓練用の移動標的を使うと聞いて、エレナは木剣の握りを確かめる。
「速く片づければいい、という課題じゃないんだね」
「そう。相手を止めても、守るものを壊したら失敗だ」
ルシアンはそう言って、仲間の立つ位置を指さした。学院の七人はまだ知らない不穏さを、いつもの稽古で紛らわせる。エレナも頷く。目の前の敵役だけを見れば、彼女の剣は速い。けれど、守りたい人はいつも背後にいる。
笛が鳴る。エレナが前衛を引き受け、ルシアンが風で横の標的を遅らせ、アレクシスが《金剛》の盾で後衛を守る。木剣と盾が触れる鈍い音、風の低い唸り、靴底が床を擦る音が短く重なった。訓練が終わると、エレナは額の汗を袖で拭った。
「私、一歩だけ遅かった?」
「半歩かな。でも、その半歩で後ろが安全になった」
「じゃあ、次も同じようにする!」
「状況が同じならね」
ルシアンの慎重な答えに、エレナは笑う。エレナが「誰か一人なら間に合わなかった」と言う。勝敗よりも、何を守れたかが二人の話題になっていた。
クラウスは報告書を閉じた後も、しばらく執務机を離れなかった。
窓の外では王宮の衛兵が交代し、夕暮れの石畳に規則正しい靴音を響かせている。国を守る仕組みは、こうした小さな確認の積み重ねで成り立っているのだと、彼は幼いころから教えられてきた。
「殿下、第二王子殿下には、どのようにお伝えいたしますか」
側近の問いに、クラウスは一度だけ目を閉じた。
「まずは本人から事情を聞く。責めるためではなく、何を事実として受け取っているか確かめたい」
「匿名の意見書については」
「出所を調べる。ただし、匿名であることだけを理由に退けてもいけない」
クラウスは机上の二枚を指で揃えた。
「書かれた内容を、記録と照らすんだ。誰の名が記されているかより先にね」
ヴィクトリアが静かに頷く。
「セレスティーヌ様が、ご自身の言葉で話そうとしていらっしゃることを、わたくしは嬉しく思います」
「君が見守ってきたからだろう」
「いいえ。周囲の助けはあったでしょうけれど、最後に口を開いたのはあの方ご自身です」
その言葉に、クラウスは微笑んだ。
「そうだね。私たちは、その選択を軽んじてはいけない」
話題が途切れたところで、ヴィクトリアは窓辺の小さな花瓶へ目を向けた。淡い桃色の花が一輪だけ挿してある。
「今日は珍しい花を飾っていらっしゃるのですね」
「君が以前、可愛いと言っていたから」
「……覚えていらしたのですか」
彼女は少しだけ頬を染めた。
厳しい報告に囲まれた部屋で、その短い会話は二人にとって大切な息継ぎになった。
だがクラウスは、机の隅に置かれた北方の地図へ視線を戻す。学院で起きている小さな不一致と、北から届く不可解な報告。今は別々の出来事に見える。
だからこそ、思い込みで結びつけず、一つずつ確かめなければならない。
けれど王都の別の場所では、ヴァイスベルク侯爵ハインリヒが封書を受け取っていた。
「娘は、役目をよく理解しているようだな」
彼は文面を読み、暖炉の火へ一枚の紙を落とした。
その紙に何が書かれていたのか、部屋にいた者は知らない。
「殿下の周囲に、余計な声が増えるのは困る」
侯爵は静かに言った。
王立学院では、次の週の授業予定が掲示されている。
穏やかな日常のすぐ隣で、まだ名前のない亀裂が広がり始めていた。




