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辺境子爵令嬢は平穏に暮らしたい ~剣と魔法の才能を隠して、普通の学院生活を送るはずでした~  作者: EA
第二部「王国の陰謀編」

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第89話 拍手の届かない場所

 式典の翌朝、学院には二つの噂が流れていた。


 一つは、セレスティーヌが王宮で見事に役目を果たしたというもの。


 もう一つは、彼女がヴァイスベルク侯爵家の令嬢に逆らったというものだった。


 同じ出来事なのに、語る人によって形が変わる。


「噂って、商売の値札より簡単に付け替えられるのよね」


 フィオナは食堂の窓際で、呆れたように言った。


「笑い事じゃないわ。家名まで持ち出す人がいるのよ」


 ミレイユは珍しく声を低くした。


 セレスティーヌは茶杯を両手で包んだ。


「わたくしが言葉を返したことで、皆さんまでご迷惑を……」


「そこで私たちに謝るのは禁止」


 エレナが即座に言った。


「え?」


「だって、私たちは自分で手伝うって決めたんだよ」


 ノエルも頷く。


「そう。誰かに命じられたわけじゃない」


 セレスティーヌは少し笑った。


 けれど、その日の午後には、伯爵家から急ぎの手紙が届いた。


 父の筆跡は丁寧だった。


『王宮での出来事について、複数の話が届いている。おまえの言葉で、何があったのか教えてほしい』


 叱責ではない。


 それでも、家族に心配をかけたという事実が重かった。


 セレスティーヌは机に向かい、出来事を一つずつ書き出した。


 最初の名簿。変更された名簿。控室での会話。自分が言ったこと。


 書き終えるころには、外が暗くなっていた。


 夕食のあと、彼女は中庭でアレクシスと顔を合わせた。


「今日は訓練に来なかったな」


「申し訳ありません。手紙を書いておりまして」


「そうか。無理をしなくていい」


 アレクシスは少し迷ってから、言葉を続けた。


「昨日のこと、聞いた。君が自分で話したんだってな」


 セレスティーヌは頷いた。


「怖かったですわ。今も、あれでよかったのか分かりません」


「怖くても言えたなら、それは君の強さだと思う」


 その言葉は、押しつけがましくなかった。


「でも、強かったからって、疲れないわけじゃないだろう」


 セレスティーヌは目を見開いた。


 褒められることには慣れていない。まして、疲れていることまで見抜かれるとは思わなかった。


「……少しだけ、疲れました」


「なら、今日は休め。明日の訓練は逃げない」


 アレクシスは軽く手を振って去った。


 彼の背中を見送りながら、セレスティーヌはゆっくり息を吐く。


 胸に生まれた感情を、恋だとは思わなかった。


 ただ、自分の疲れを認めてもよいのだと教えてもらえた気がした。


 式典の拍手が遠く感じられた日、七人は学院の訓練場に集まった。物陰の負傷者人形を運ぶ訓練を見たエレナは、目を輝かせる。


「面白そう! でも、これって何を守る練習?」


「その質問を最初にしてくれて助かったよ」


 ルシアンは地面に退路を描いた。誰にも見えない場所で支える役割の大切さを確かめる。それを言葉にするのは簡単でも、実際に体を動かすと判断は遅れる。


 木剣を握ったエレナは、普段の勢いを少し抑えた。模擬敵が迫る。エレナが迫る木剣を短い動きで止め、ルシアンが水で滑りやすい床を洗い流さず湿りを寄せる。風が袖を引き、木剣の先で乾いた音が弾ける。敵役が下がるまでの数呼吸、エレナは背後の仲間の位置を見失わなかった。


「さっき、すぐ追わなかったね」


「追ったら後ろが空くでしょ。……前はよく忘れてたけど」


「自分で気づけるなら、十分進歩だよ」


 ルシアンの言葉にエレナは照れたように鼻をこする。ノエルが「目立たない人が一番忙しいのね」と呟く。見ていた仲間の顔に、緊張が少しずつほどけていった。


 式典が終わった夕暮れ、学院の庭にはまだ花の香りが残っていた。


 遠くの広場では、後片づけを終えた生徒たちが互いの働きを褒め合っている。笑い声が風に運ばれるたび、セレスティーヌは自分だけが少し離れた場所に立っているような気がした。


「ここにいたのか」


 声の主はアレクシスだった。彼は手にしていた水筒を掲げる。


「飲むか? さっきからほとんど休んでいないだろ」


「ありがとうございます。でも、わたくしは大丈夫です」


「そう言うと思った」


 彼は笑い、少し離れた石の腰掛けに座った。


「大丈夫じゃないときに、そう言う人もいるからな」


 責める声ではなかった。


 セレスティーヌはしばらく迷ってから、彼の隣ではなく、向かいの腰掛けに座る。


「……少し、疲れました」


「うん」


「今日は、きちんとお役に立てたのでしょうか」


「俺が見た範囲では、そう思う」


 アレクシスはすぐに言い切らず、言葉を選んだ。


「でも、全部を見ていたわけじゃない。だから、君が自分でどう感じたかも大事だと思う」


 セレスティーヌは両手を見下ろした。指先には、名札を何度も並べ替えたときの紙の感触が残っている。


「怖かったです。何か言えば、また間違いだと言われる気がして」


「それでも言ったんだな」


「はい」


「じゃあ、そのことは君が自分で認めていい」


 アレクシスの声はいつもと変わらず明るかった。


 彼は彼女の婚約について何も尋ねず、特別な慰めも口にしなかった。その距離の取り方が、かえってありがたかった。


「ヴァレンシュタイン様は、不思議な方ですわね」


「え、そうか?」


「はい。何かを決めつけずに、聞いてくださるから」


 アレクシスは少し照れたように頬をかく。


「俺だって、分からないことは多いよ」


 夕陽が彼の横顔を赤く染めた。


 アレクシスは、彼女が笑ったことに胸が温かくなるのを感じた。けれど、その理由を言葉にするのは今ではないと、静かに自分へ言い聞かせる。


 一方、学院の別棟では、イザベラが父宛ての書簡を閉じていた。


『ベルクハルト嬢は、以前ほど従順ではありません』


 その一文を読み返し、彼女は封蝋を押す。


 窓の外には、何も知らない生徒たちの笑い声が響いていた。


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