第88話 わたくしの言葉で
王宮の控室には、花の香りが満ちていた。
イザベラの声は柔らかかったが、その目は笑っていなかった。
「お手伝いをする方が多いと、かえって混乱することもありますわ」
セレスティーヌは深く一礼した。
「ご心配ありがとうございます。担当教員の指示を確認し、皆で役割を分けております」
「まあ。ずいぶん自信がおありなのね」
イザベラの後ろには、彼女と親しい令嬢が二人立っていた。
「王子殿下のお気持ちを考えれば、控えめにしていらしたほうがよろしいのでは?」
その言葉に、セレスティーヌの胸が痛んだ。
フェリクスの顔が浮かぶ。どんな答えをしても、間違いだと言われるような気がした。
けれど、ここには友人たちがいる。
そして、自分が引き受けた仕事がある。
「わたくしは、殿下のお気持ちを勝手に決めつけることはできません」
セレスティーヌは顔を上げた。
「ですが、今日の役目については正式な指示をいただいております。途中で放り出せば、かえって皆さまにご迷惑をおかけします」
令嬢の一人が眉を上げた。
「わたくしたちの助言を退けるのですか」
「助言には感謝しております。ただ、役目を果たすことは、わたくし自身が決めたいのです」
沈黙が落ちた。
セレスティーヌは、手のひらに汗をかいているのを感じた。
怖くないわけではない。声が震えないようにするだけで精一杯だった。
イザベラが微笑みを深くする。
「後でお困りにならないといいですわね」
それだけ言い、彼女は踵を返した。
扉が閉まると、セレスティーヌの膝から力が抜けそうになった。
「……言えましたわ」
自分の声がひどく小さく聞こえた。
ミレイユがすぐに頷く。
「ええ。ちゃんと伝わったわ」
「伝わったかどうかは、分かりません」
セレスティーヌは苦笑した。
「でも、わたくしが何を考えているかは、お話しできました」
エレナが嬉しそうに笑う。
「それって、すごいことだと思う」
アレクシスは少し離れた場所で、通路の確認を終えていた。
彼は声をかけようとして、やめた。
今のセレスティーヌには、誰かが代わりに言い返したという記憶ではなく、自分で言葉を選んだという実感が必要なのだと思ったからだ。
式典の途中、控室の扉の向こうから急ぎ足が聞こえてきた。
来賓の到着が予定より早まったという。担当者が名簿をめくり、焦った声で人数を数え直す。
――王宮から戻った翌朝。
学院の訓練場では、二対一の護衛役交代が用意されていた。今日の課題は、敵役を倒すことではなく、危険を見極めて味方を通すことだ。
「先に突っ込んでいい?」
「まず合図を聞いて。エレナの一歩は、普通の人の三歩分くらい速いから」
ルシアンの返事に、エレナは口を尖らせた。だが、彼が言いたいことも分かる。自分の言葉を取り戻したセレスティーヌが、自分の足でも踏み出したいと願う。そんなときこそ、慣れた剣に頼りすぎてしまうのだ。
開始の笛が鳴った。エレナが相手の剣筋を受け流し、ルシアンが風で後方の人形を守る。木のぶつかる乾いた音が響き、砂が靴底で小さく鳴った。三人は一度も互いの進路を塞がず、最後の標的が止まったところで構えを解いた。
「今のは、僕が前に出すぎた」
「ううん、私も見てなかった。次は先に言う」
エレナが素直に答えると、ルシアンの目元が緩む。セレスティーヌが自分から交代の合図を出す。勝ったことより、互いの動きを確かめられたことが、今日の収穫だった。
「お席が一つ足りません」
「予備の椅子は隣室にございます」
セレスティーヌはすぐに答えた。
「ただし、通路を狭めないように配置を確かめましょう」
以前の自分なら、誰かから指示が出るまで動けなかったかもしれない。けれど今は、勝手に決めることと、必要な確認を申し出ることの違いが少し分かる。
ミレイユが机上の布を整え、フィオナが来賓の人数を再確認する。ノエルは控室で具合の悪そうな生徒に水を渡した。
エレナは予備の椅子を持ち上げかけ、ルシアンに袖を引かれる。
「音を立てないようにね」
「分かってるよ。そーっと、でしょ」
「その『そーっと』が心配なんだ」
緊張した空気の中で、セレスティーヌは小さく笑った。
担当教員が戻り、準備の確認を終えたことを告げた。
「皆さんのおかげで助かりました。来賓の案内を始めましょう」
セレスティーヌは小さく頷く。先ほどイザベラに自分の意思を伝えたときの緊張は、まだ指先に残っていた。
それでも、今は目の前の役目を果たせる。
式典が始まると、来賓が次々に控室へ案内された。
セレスティーヌは名札を確かめ、案内役と短い合図を交わす。
途中、年配の来賓が段差につまずきかけた。
「こちらへ、どうぞ」
彼女はとっさに手を差し出し、傍らの椅子へ誘導した。
大きな魔法を使う必要はなかった。
落ち着いて相手を見て、必要なことをする。
それだけで、守れるものがある。
式典の終わり、ヴィクトリアが彼女に声をかけた。
「今日は、よく務めてくださいましたね」
「皆さんのお力があったからです」
「もちろん。でも、あなたがご自身で選んだことも、忘れないで」
セレスティーヌは頷いた。
胸の奥に、小さな灯がともった気がした。
誰かの許しがなくても、自分の言葉は持っていていい。
そのことを、ようやく信じ始めていた。




