第87話 招かれなかった名前
王宮行事の前日、学院に新しい連絡が届いた。
見学者だけでなく、儀礼補助訓練に参加した生徒の一部も、当日の控室準備を手伝うことになったという。
セレスティーヌの名も、今度は確かに記されていた。
「よかったじゃない」
ミレイユが笑う。
「ええ。でも、まだ安心はできません」
セレスティーヌは名簿を指でなぞった。
前回の変更を思い出すと、紙に書かれた文字だけでは心が落ち着かなかった。
当日の朝、彼女たちは学院から馬車で王宮へ向かった。
石畳を走る車輪の音。窓の外に流れる白い城壁。いつもより硬い表情のセレスティーヌに、エレナが小声で尋ねた。
「緊張してる?」
「少しだけ」
「私も。変なことをして目立たないようにしなきゃ」
「エレナの場合は、そちらのほうが難しそうですわ」
セレスティーヌが笑うと、ルシアンまで苦笑した。
王宮に着くと、担当者が彼女たちを案内した。
しかし控室の入口で、見知らぬ文官が名簿を見て首を振る。
「ベルクハルト伯爵令嬢には、こちらの役目をお願いしておりません」
「ですが、学院からの連絡には……」
「こちらが最終指示です」
差し出された紙には、セレスティーヌの名だけがなかった。
代わりにイザベラの名が二つの役目に記されている。
エレナが一歩前に出かける。
その袖を、セレスティーヌがそっと引いた。
「ありがとう。でも、わたくしから伺います」
彼女は文官に向き直った。
「ご指示には従います。ただ、学院から受け取った役割と異なりますので、担当教員へ確認をお願いできますか」
文官は面倒そうに眉を寄せた。
「時間がありません」
「承知しております。だからこそ、行き違いのまま動いてご迷惑をおかけしたくないのです」
静かな声だった。
文官が言葉を探していると、廊下の向こうからヴィクトリアが現れた。
「何か問題が?」
事情を聞いた彼女は、二枚の名簿を見比べた。
「どちらが正式な指示か、責任者に確認しましょう。誰か一人の判断で決めることではありません」
それだけで、場の空気が変わった。
確認の結果、セレスティーヌは当初の役割に戻された。ただし、予定より準備時間は短くなってしまった。
「私たちも手伝うよ」
エレナが言い、フィオナが荷物の運搬順を整えた。
ノエルは控室の薬箱を点検し、ミレイユは卓上の札を並べ直す。
アレクシスは通路の混雑を見て、案内役と相談した。
短い時間で、部屋はどうにか整った。
セレスティーヌは最後の花瓶の向きを直し、息をつく。
「皆さん、ありがとうございます」
「まだ終わってないわよ」
式典の控室に向かう前日、訓練場の片隅で学院の空いた廊下に置かれた屏風を使った連携稽古が始まった。
「今日も全力でいい?」
「木剣と通常魔法だけ。あと、周りを見て」
ルシアンが先に念を押すと、エレナは「分かってるって」と笑った。人混みの中で目立たず危険を察知する練習。けれど、焦るといつもの間合いに戻ってしまうことも、二人は知っている。
敵役が動いた。エレナが木剣を鞘に収めたまま体を入れて道を塞ぎ、ルシアンが風で足元の紙片を散らさず拾う。踏み込んだ足の下で小石が鳴り、乾いた木の衝突音が続く。エレナは追撃できる距離にいたが、あえて止まった。後ろの仲間が通り抜けるまで、剣先を低く保つ。
「……今、止まってくれたんだね」
「うん。私だけ先に行っても、みんなが困るから」
ルシアンは小さく頷き、魔法を解いた。フィオナが「これならドレスでも逃げられる」と言う。エレナは木剣を鞘へ戻し、次の課題を尋ねる。その声はいつもどおり明るかったが、相手の返事を待つ余裕があった。
ミレイユが片目をつむる。
「本番があるんだから」
控室の準備は、思っていた以上に細かな仕事の連続だった。
机の数を数え、来賓用の水差しを確かめ、廊下から入る風で書類が飛ばないように重しを置く。華やかな式典の裏側に、こんなにも多くの手が必要なのだとセレスティーヌは初めて実感していた。
「こちらの名札、二枚だけ字体が違うわ」
ミレイユが指先で紙を示す。
「急いで作り直したのかしら」
「印刷の版が違うのかもしれない」
フィオナが名札を光に透かした。
「紙の厚みも少し違うね。だからといって、これだけじゃ理由は分からないけど」
セレスティーヌは担当者を呼び、確認をお願いした。返事を待つ間、ノエルは窓際に置かれた花瓶を少し動かす。
「ここ、通る人の袖が当たりそう」
「本当だ。ありがとう」
エレナが花瓶を奥へ移した。
「私、こういう細かいところを見落としがちだから助かる」
「エレナは重い机を運ぶときに助かってるよ」
「それは得意!」
五人が笑ったとき、セレスティーヌはふと胸の奥が温かくなるのを感じた。
誰かの席を奪うためではなく、誰かが安心して座れるように準備する。
自分が今日していることは、きっとそういう仕事なのだ。
ところが、戻ってきた担当者の顔は曇っていた。
「申し訳ありません。こちらの控室には、ベルクハルト様のお名前が正式な担当として載っておりません」
セレスティーヌは目を見開く。
「ですが、学院からお手伝いをお願いされたと伺っております」
「私もそう承知しておりました。確認を続けますので、少々お待ちください」
責めるべき相手が目の前にいるわけではない。それでも、喉の奥に苦いものが広がった。
「セレスティーヌ、どうする?」
エレナが尋ねる。
「……確認が終わるまでは、できる準備を続けたいです」
今度は、自分で決めた。
そのとき、扉の外から聞き覚えのある声がした。
「……随分、騒がしいこと」
イザベラだった。
彼女は整えられた控室を見渡し、微笑みを浮かべた。
「ベルクハルト様。今日は、ずいぶん張り切っていらっしゃるのね」
セレスティーヌは、もう俯かなかった。




