第91話 折り目のついた返書
秋の朝は、窓を開けると少しだけ冷たかった。
セレスティーヌは寮の机に父からの手紙を置き、封筒の端を指でなぞった。昨夜から何度も読み返しているため、折り目が柔らかくなっている。
『すぐに答えを出す必要はない』
その一行を目にするたび、胸の奥で固まっていたものが少しずつほどけていく。
婚約者であるフェリクス殿下の振る舞いを父に伝えるのは、怖かった。伯爵家の娘として求められる役目を果たせていないと叱られるのではないか。自分が我慢すれば済む話だと諭されるのではないか。
けれど父は、まず話してくれたことを喜んでくれた。
「……わたくしの考えを、知りたいと」
声にすると、まだ不思議な響きがした。
廊下で朝の鐘が鳴る。セレスティーヌは手紙を丁寧にしまい、学院の制服に袖を通した。
食堂では、エレナが焼きたてのパンを前に真剣な顔をしていた。
「その顔、何か難しい問題でも?」
ミレイユが尋ねる。
「このパン、外は硬いのに中はふわふわなんだよ。どうやったらこうなるのかな」
「焼き方の研究を始める気?」
「剣の鍛え方にも通じるところがあるかも」
「ないと思うわ」
フィオナが即座に答え、ノエルが小さく笑った。
セレスティーヌも笑いかけたところで、食堂の入り口がざわついた。
フェリクスが数人の生徒を従えて入ってきたのだ。隣にはイザベラがいる。
「昨日の式典は、ずいぶん勝手な判断があったようだな」
周囲にも聞こえる声だった。
セレスティーヌの手が止まる。誰に向けた言葉か、考えるまでもなかった。
「殿下。記録については担当の方に確認していただいております」
立ち上がって答えると、フェリクスは眉を寄せた。
「私に説明するより先に、他人へ弁明したのか」
「事実を確かめていただきたかったのです」
声が震えた。それでも目を伏せずにいられたのは、昨夜の手紙のおかげかもしれない。
イザベラが柔らかく口を挟んだ。
「セレスティーヌ様もお疲れなのでしょう。皆様の前でお話しなさらなくても」
気遣いに聞こえる言葉は、なぜか彼女の胸をさらに冷やした。
「お心遣い、ありがとうございます。ただ、誤解のあるままにしたくありません」
フェリクスは鼻を鳴らして去っていった。
食堂に残った視線が、背中へ刺さる。セレスティーヌは座った途端、膝の上で拳を握った。
「よく言えたね」
エレナが言う。
「……上手には、言えませんでした」
「でも、自分の言葉だったよ」
ミレイユは茶を差し出し、フィオナは何事もなかったようにパンを半分に切った。ノエルが「食べられそう?」と静かに聞く。
セレスティーヌは頷いた。
折り目のついた返書を読んだ日の放課後、訓練場の片隅で三つの木製標的を順に倒す演習を使った連携稽古が始まった。
「今日も全力でいい?」
「木剣と通常魔法だけ。あと、周りを見て」
ルシアンが先に念を押すと、エレナは「分かってるって」と笑った。手紙の温かさを胸に、セレスティーヌが訓練を見学する。けれど、焦るといつもの間合いに戻ってしまうことも、二人は知っている。
敵役が動いた。エレナが最初の標的を最小限の一撃で止め、ルシアンが風で二つ目を逸らす。踏み込んだ足の下で小石が鳴り、乾いた木の衝突音が続く。エレナは追撃できる距離にいたが、あえて止まった。後ろの仲間が通り抜けるまで、剣先を低く保つ。
「……今、止まってくれたんだね」
「うん。私だけ先に行っても、みんなが困るから」
ルシアンは小さく頷き、魔法を解いた。セレスティーヌが「順番を決めれば怖さが減ります」と話す。エレナは木剣を鞘へ戻し、次の課題を尋ねる。その声はいつもどおり明るかったが、相手の返事を待つ余裕があった。
手紙を書きかけたまま、セレスティーヌは窓の外を見た。
寮の中庭では、掃除当番の生徒が落ち葉を集めている。竹箒が石畳を擦る音は規則正しく、風が吹くたびにまた葉が舞い戻った。
何度片づけても、すべてが元どおりになるわけではない。
自分の婚約も、そんなふうに考えてよいのだろうか。
幼いころ、婚約が決まった日のことを覚えている。母は新しい礼装を仕立て、父は王家との約束の重さを静かに説いた。あのときの自分は、殿下の隣にふさわしい人間になりたいと心から願った。
その願いが間違っていたとは思わない。ただ、ふさわしくあることと、傷つく言葉をすべて受け入れることは違う。
「……今日も、できることから」
独り言に答えるように、遠くで始業の鐘が鳴った。
彼女は父への返書を折り、鞄へしまった。指先はまだ冷たい。それでも、昨夜のように机の前から動けなくなることはなかった。
昼食時、食堂へ向かう廊下でミレイユが待っていた。
「遅かったじゃない。席、取ってあるわよ」
「ありがとう。少し手紙を書いていたの」
「ご実家から?」
「ええ。父が……急いで答えを出さなくてよいと」
ミレイユは歩幅を緩めた。
「それなら、今すぐ元気な顔を作る必要もないわね」
「……そういうことになるのかしら」
「なるの。お昼は温かいスープだって。食べてから考えましょう」
その言い方がおかしくて、セレスティーヌは小さく笑った。
人は大きな励ましだけで立ち直るわけではない。隣を歩く友人の足音や、食堂から漂う焼きたてのパンの匂いに救われる日もある。
午前の授業が終わるころ、王宮からの使いが学院長室を訪れたという噂が広まった。内容を知る者はいない。
夕方、セレスティーヌは寮の窓から王都を眺めた。屋根の向こうで鐘が鳴り、遠い街道には荷車が小さく見える。
怖さは消えていない。けれど、怖いままでも話せることを、今日は知った。
彼女は父への返事を書き始めた。
『今日は、殿下に自分の言葉で説明いたしました』
筆を置いたとき、扉の下に一枚の紙が差し込まれた。
差出人のない、学院の公式書式を模した呼び出し状だった。
『明日放課後、旧資料室へ。式典記録について確認事項あり』
セレスティーヌは紙を見つめ、すぐには立ち上がらなかった。
今度は、誰かに確かめてから動こう。
それもまた、自分で選べることなのだから。




