第92話 侯爵邸の朝食
ヴァイスベルク侯爵邸の朝食は、いつも静かだった。
銀の食器は曇りなく磨かれ、焼きたてのパンは同じ厚さに切り揃えられている。窓の外では庭師が落ち葉を集めていたが、その音さえ厚い硝子に遮られていた。
ハインリヒ・フォン・ヴァイスベルクは、紅茶に口をつける前に封書を開いた。
王宮行事の記録について、王太子が確認を進めているという報告だった。
確認を担当しているのは宰相府のユリウスだった。クラウスが学院時代から信頼する側近の一人であり、王宮内でも記録の出所を丁寧に辿ることで知られている。
「慎重な方だ」
彼は感心とも皮肉ともつかない声で言った。
向かいに座るイザベラは、手元のナプキンを整えた。
「クラウス殿下は、いつも記録を重んじられますわ」
「記録は便利だ。誰が書き、誰が保管したかまで確かめなければ、なおさらな」
娘は視線を上げた。
「わたくしに、何かお命じですか」
「命じることはない。学院では、おまえ自身が最もよく見える位置にいる」
その言い方を、イザベラは幼いころから知っていた。父は直接の命令を避けるときほど、相手に望む答えを考えさせる。
「フェリクス殿下は、セレスティーヌ様に不満をお持ちのようです」
「王子の不満は、王子自身のものだ。おまえが代弁してはいけない」
「承知しております」
ハインリヒは娘の返答に頷いたが、表情を緩めなかった。
婚約は王家と貴族家の約束だ。感情だけで動かせるものではない。だからこそ、感情を無視しても動かない。
「誰かが正しいと声を張り上げるほど、周囲は別の正しさを探し始める。おまえは礼儀を崩すな」
イザベラは微笑んだ。
「わたくしは、殿下のお役に立ちたいだけです」
父はその言葉を肯定も否定もしなかった。
イザベラはナイフを置き、父の顔を窺った。
侯爵邸の食卓では、食器の音ひとつにも作法があった。幼いころから身につけてきたその静けさが、今朝ばかりは息苦しい。
「お父様は、セレスティーヌ様をどうご覧になりますか」
「ベルクハルト伯爵家の令嬢だ。王家との正式な婚約を結んでいる」
「それだけですか」
「それだけで十分に重い」
父はパンを一口切り、ゆっくり噛んだ。
「イザベラ。人の席を望むなら、その席に座る責任まで想像しなさい」
諭されたのか、試されたのか。イザベラには分からなかった。
フェリクスの隣に立つ自分を想像すると、胸が熱くなる。彼は自分の話を聞いてくれる。少なくとも、学院の廊下ではそう見える。けれどその熱の底に、誰かに選ばれたいという焦りがあることも、薄々気づいていた。
「わたくしは、軽い気持ちではありません」
「ならば軽率な証拠を残すな」
ハインリヒの声は低く、叱責に似ていた。
イザベラは口を結んだ。父が求めるのは娘の幸せなのか、侯爵家の利益なのか。どちらかひとつではないのだろう。それが、いっそう答えを難しくした。
朝食を終えて廊下へ出ると、庭園の薔薇は雨に備えて枝を結ばれていた。
――侯爵邸で別の思惑が動いていたころ。
学院の訓練場では、護衛対象を模した荷車と砂利道が用意されていた。今日の課題は、敵役を倒すことではなく、危険を見極めて味方を通すことだ。
「先に突っ込んでいい?」
「まず合図を聞いて。エレナの一歩は、普通の人の三歩分くらい速いから」
ルシアンの返事に、エレナは口を尖らせた。だが、彼が言いたいことも分かる。学院の仲間たちは政治の駆け引きとは無縁に訓練の段取りを話す。そんなときこそ、慣れた剣に頼りすぎてしまうのだ。
開始の笛が鳴った。アレクシスが《金剛》で車輪側を支え、エレナが敵役の木剣を弾き、ルシアンが風で砂埃を押し返す。木のぶつかる乾いた音が響き、砂が靴底で小さく鳴った。三人は一度も互いの進路を塞がず、最後の標的が止まったところで構えを解いた。
「今のは、僕が前に出すぎた」
「ううん、私も見てなかった。次は先に言う」
エレナが素直に答えると、ルシアンの目元が緩む。エレナが「力を使う順番が大事だね」と笑う。勝ったことより、互いの動きを確かめられたことが、今日の収穫だった。
彼女は足を止める。自由に伸びる枝は美しくても、支えがなければ折れてしまう。そう教えられてきた。
では、自分が伸ばしたい枝は、誰のためのものなのだろう。
同じ朝、王宮ではクラウスが式典記録の複写を前にしていた。
「名簿の変更を承認した者が、記録上は空欄になっている」
側近は頷いた。
「担当者の聞き取りでは、口頭の指示があったと」
「誰から?」
「そこが一致しておりません」
クラウスは書類を閉じた。
曖昧な証言を都合よくつなげれば、すぐに一つの筋書きができる。だが、その筋書きが事実とは限らない。
「まず運営責任者に確認を。生徒への問いただしは、その後だ」
そこへヴィクトリアが訪れた。
「お顔が険しいですわ」
「朝から紙とにらめっこしていたら、こうなるらしい」
「紙は反論しませんものね」
彼女の冗談に、クラウスはようやく笑った。
しかし机の端に置かれた北方の報告書は、さらに厄介だった。ノルディアからの物資が予定より遅れ、その理由として街道警備の強化が挙げられている。
「式典と北方の件は別々に扱う。いま結びつける根拠はない」
クラウスはそう念を押した。
昼前、侯爵邸ではハインリヒが別の来客を迎えていた。
相手は王都で交易を仲介する書記官で、最近の街道事情を詳しく知っているらしい。
「北方への荷が遅れております」
「それは商人たちにとって痛手だろう」
「はい。とくに一部の荷には、届け先の記載が不自然なものがございます」
ハインリヒは茶器を置いた。
「不自然、とは?」
書記官は声を落とした。
侯爵は最後まで聞いたが、すぐには返事をしなかった。
窓の外では落ち葉が風に舞い、整えられた庭の端に積もっていく。
見えないところで増えるものは、落ち葉だけではなかった。




