第93話 紙の上の評判
学院の掲示板に、王宮行事の正式な報告が貼り出された。
セレスティーヌは登校途中にそれを見つけた。式典の運営は概ね良好。名簿の一部に不備があったものの、担当者が確認して修正した、と記されている。
自分の名前はなかった。
安堵するべきなのだろう。けれど、名がないことにほっとする自分を、少し情けなくも感じた。
「よかったね」
エレナが隣から覗き込む。
「ええ。でも、これで終わりでしょうか」
「終わりじゃなくても、今日はお昼を食べようよ」
「……エレナらしいですわね」
その素直な返事に、セレスティーヌは笑った。
ところが教室では、別の紙が回っていた。誰が書いたのか分からない、式典の感想をまとめたという手書きの控えだ。
『一部の令嬢が進行を乱した』『殿下の意向を軽んじた』
具体的な名前を避けた文章ほど、読む者に好きな名を当てはめさせる。
ミレイユは紙を受け取り、眉をひそめた。
「これ、事実の確認先が一つも書いてないわ」
「でも皆、面白がって読んでる」
フィオナが窓際の生徒たちを見た。
ノエルは紙の端に目を留めた。
「同じ文字が、何度も書き直されてる。急いで写したのかも」
エレナは思わず口を開いた。
「こんなの、書いた人に直接聞けば――」
「エレナ」
ルシアンが廊下から声をかけた。
「相手が分からないまま問い詰めても、余計に噂が広がるよ」
「……そうだよね」
分かっている。剣なら相手の位置を見て間合いを測れる。けれど言葉には、刃を振り下ろす相手が見えないことがある。
その日の授業は、いつもより長く感じられた。
教室の窓から差す光は柔らかいのに、セレスティーヌの肩はずっと固いままだった。後ろの席で誰かが囁くと、自分の名前が聞こえた気がしてしまう。
振り返れば、ただ課題について相談しているだけかもしれない。そう分かっていても、胸の奥に小さな棘が刺さる。
休み時間、エレナが机の横へ来た。
「一緒に中庭を歩かない?」
「わたくしといると、あなたまで何か言われるかもしれないわ」
「えっ、何を?」
あまりに本気で不思議そうな顔をされ、セレスティーヌは言葉を失った。
「だって、私たち友達でしょう。歩きたいから誘ってるんだよ」
エレナは窓の向こうを指差す。
「ほら、あの木。葉っぱが半分だけ赤いの。リーヴェルの森だと、もっと一気に色が変わるんだけど」
「……見に行きましょうか」
二人で階段を下りると、庭には乾いた土と落ち葉の匂いがした。エレナは剣術の授業で教官に叱られた話を、身振り手振りで再現してみせた。
「それで『力を入れる前に考えろ』って。私、考えてたつもりなんだけど」
「どんなことを?」
根拠のない評判が広がり始めた日、七人は学院の訓練場に集まった。見学者の多い公開基礎訓練を見たエレナは、目を輝かせる。
「面白そう! でも、これって何を守る練習?」
「その質問を最初にしてくれて助かったよ」
ルシアンは地面に退路を描いた。他人の視線を気にして動きが硬くなるセレスティーヌを支える。それを言葉にするのは簡単でも、実際に体を動かすと判断は遅れる。
木剣を握ったエレナは、普段の勢いを少し抑えた。模擬敵が迫る。エレナが大振りを避けて相手の剣を払い、ルシアンが低い風で足元の落ち葉を散らす。風が袖を引き、木剣の先で乾いた音が弾ける。敵役が下がるまでの数呼吸、エレナは背後の仲間の位置を見失わなかった。
「さっき、すぐ追わなかったね」
「追ったら後ろが空くでしょ。……前はよく忘れてたけど」
「自分で気づけるなら、十分進歩だよ」
ルシアンの言葉にエレナは照れたように鼻をこする。アレクシスが「見せるための強さじゃない」と声をかける。見ていた仲間の顔に、緊張が少しずつほどけていった。
「どうすれば一番早く勝てるか!」
「……それは、教官の望んだ答えとは違う気がするわ」
二人で笑う。
笑ってしまったあと、セレスティーヌは少し驚いた。誰かに見られているかどうかを忘れたのは、朝から初めてだった。
その小さな時間があったからこそ、放課後の話し合いでは、噂を恐れる気持ちと事実を確かめる必要を分けて考えられた。
放課後、五人は図書室の小机に集まった。
「何もなかったことにするのも違うと思うの」
セレスティーヌが言った。
「でも、誰かを疑うために集まったわけじゃないよ」
エレナは頷く。
ミレイユが紙を二つに分けて置いた。
「確認できたことと、まだ分からないこと。これを混ぜない」
フィオナは商会の帳簿で使う方法だと説明した。仕入れ先の噂だけで取引を止めれば、間違った判断で相手を傷つけることがある。
ノエルはセレスティーヌの手元へ温かい茶を寄せた。
「今日は疲れてる。全部いま決めなくてもいい」
その言葉に、セレスティーヌはようやく背中を椅子へ預けた。
同じころ、王宮ではクラウスが側近から報告を受けていた。
報告したユリウスは、書類の末尾に確認できなかった点をあえて残していた。
「殿下、噂の広がり方は追えます。しかし、それが誰の指示によるものかはまだ不明です」
「それでいい。分からないことまで埋める必要はない」
ユリウスは小さく頷く。学院でヴィクトルが教えてくれたのも、強さより先に自分の限界を知ることだった。
「学院内で、匿名の文書が回っているそうです」
「王宮の正式記録と食い違うのか」
「断定を避けながら、印象だけを残す書き方です」
クラウスは苦い顔をした。
「それは訂正が難しい。間違った日付なら直せるが、印象は人によって違うからね」
ヴィクトリアが静かに言った。
「だからこそ、彼女が日々どう振る舞っているかを、見ている人が必要なのだと思います」
クラウスは頷いた。
その日の夕刻、侯爵邸へ学院から短い報告が届いた。
ハインリヒは内容を読み、イザベラが名を出さずに周囲の評判を動かしていることを察した。
「賢いが、まだ若い」
彼は独り言を落とす。
紙の上の評判は便利だ。しかし、紙が多くなれば、いつか誰かが筆跡を比べ始める。
ハインリヒは封書を引き出しへしまい、書記官に別の用件を命じた。
「王宮へ出入りする文書の経路を、調べておけ」
それは、誰かの評判よりもずっと長く残るものだった。




