第94話 王太子の問い
執務室の外では、王国騎士団所属のアルベルト・フォン・グライフェンが警護の配置を確認していた。公爵家の次男で、クラウスとヴィクトルの学院時代を知る男である。
「殿下の問いは鋭い。だからこそ、相手が怖がらないようにする必要がある」
アルベルトは若い護衛にそう伝えた。学院時代、剣で勝てる相手にさえ手を差し伸べたヴィクトルの姿を、彼は今も覚えていた。
王宮の小会議室には、いつもより椅子が一脚多く置かれていた。
クラウスはその椅子を見て、側近に尋ねた。
「誰が増やした?」
「ヴァイスベルク侯爵閣下が、ご同席を希望されました」
「……なるほど」
今日の議題は王宮行事の記録管理だ。侯爵が直接の責任者ではない以上、同席する理由は明確にしておきたかった。
ハインリヒは予定時刻の少し前に現れ、丁寧に一礼した。
「殿下。式典の件で、娘もお世話になりました」
「こちらこそ。今日は記録の確認について話し合う場です」
「承知しております」
互いに笑みを保ったまま、席につく。
運営担当者は名簿の版を順に並べた。最初の名簿ではベルクハルト伯爵令嬢が案内役の一人になっていたが、途中の版で別の配置に変わっている。
「変更を依頼した方は?」
クラウスが尋ねる。
「第二王子殿下のご意向と伺いました」
「直接、殿下から聞いたのですか」
「いいえ。使いの者を通じて……」
担当者は言葉を濁した。
ハインリヒが穏やかに口を挟む。
「行事では、そうした口頭の連絡も珍しくありません。現場を責めすぎては萎縮いたしましょう」
「責めるつもりはありません」
クラウスは答えた。
「ただ、次に同じことが起きないよう、誰の判断だったか確かめたいのです」
「殿下は細部までお心を配られる」
褒め言葉に聞こえたが、クラウスはそのまま受け取らなかった。
「細部に人の立場がかかっていますから」
会議の空気がわずかに硬くなる。
クラウスは自分の言葉が強すぎたかと考えた。正しい問いでも、答える側を追い詰めれば証言は歪む。
「担当者の方には、思い出せる範囲で後日書面をいただければ十分です」
そう付け加えると、相手はほっとしたように息を吐いた。
担当者が書類を重ねるあいだ、クラウスは机上の二枚の名簿をもう一度見た。
文字の大きさは同じ、書式も同じ。それでも一人の名が別の欄へ移るだけで、式典の場に立つ人間の役割は変わってしまう。
「確認したいことが、もう一つあります」
クラウスの声に、担当者が背筋を伸ばした。
「変更が伝わったとき、あなたはどう感じましたか」
「……どう、とは」
王太子が記録を確認しているころ、学院では小規模な護衛演習が行われた。左右どちらかから来る不意の木球を使うと聞いて、エレナは木剣の握りを確かめる。
「速く片づければいい、という課題じゃないんだね」
「そう。相手を止めても、守るものを壊したら失敗だ」
ルシアンはそう言って、仲間の立つ位置を指さした。七人は推測と確認の違いを模擬戦の合図で学ぶ。エレナも頷く。目の前の敵役だけを見れば、彼女の剣は速い。けれど、守りたい人はいつも背後にいる。
笛が鳴る。エレナは音だけで飛び出さず目で軌道を確かめ、ルシアンは風の流れで位置を知らせる。木剣と盾が触れる鈍い音、風の低い唸り、靴底が床を擦る音が短く重なった。訓練が終わると、エレナは額の汗を袖で拭った。
「私、一歩だけ遅かった?」
「半歩かな。でも、その半歩で後ろが安全になった」
「じゃあ、次も同じようにする!」
「状況が同じならね」
ルシアンの慎重な答えに、エレナは笑う。ノエルが「確かめてから動く方が速い時もある」と記録する。勝敗よりも、何を守れたかが二人の話題になっていた。
「不自然だと思ったか。それとも通常の手続きだと」
担当者は膝の上で指を組んだ。
「王子殿下のお名前を出されましたので、疑うべきではないと思いました」
「疑うべきではない、と」
「はい。もし確認を求めて、無礼だと受け取られたら……」
最後の言葉は消え入りそうだった。
クラウスは目を伏せた。権威を持つ者の名は、それだけで人の判断を止めてしまう。自分の名も、誰かに同じ重みを与えているのだろう。
「話してくれてありがとう。あなたの責任だけにするつもりはありません」
担当者はようやく息を吐いた。
ハインリヒはそのやり取りを、指を組んだまま聞いていた。表情に変化はない。だがクラウスには、侯爵が一瞬だけ視線を落としたように見えた。
それが何を意味するのかは分からない。分からないことを、分かったことにしない。
会議室の窓を打つ風の音が、しばし二人のあいだを埋めた。
会議が終わったあと、ハインリヒは廊下でクラウスに歩調を合わせた。
「殿下は、ベルクハルト家をお気遣いなのですか」
「特定の家だけではありません。誰に対しても同じ手順を守りたいのです」
「公平は、ときに周囲を疲れさせますぞ」
「ええ。だからこそ、仕組みにしておきたい」
侯爵はそれ以上言わず、静かに頭を下げた。
学院ではそのころ、エレナが剣術の授業でガルド教官に注意されていた。
「速さを見せるな。相手の呼吸を見ろ」
「はい!」
「返事だけはいいな」
ルシアンが遠くで肩を震わせている。
エレナは少しむっとしたが、木剣を構え直した。力任せに勝つのではなく、相手が何をしようとしているかを見る。それは最近、剣の外でも必要だと感じていた。
夕刻、クラウスの机に会議の議事録が届いた。
そこには、出席者の一覧が正しく記されていた。
ただし、名簿変更の指示を伝えた使者の名前だけは、やはり空白のままだった。
「……空白を埋めるために、誰かの名を作ってはいけない」
クラウスはそう呟き、翌日の確認事項を一つ増やした。




