第95話 封蝋の色
王都に雨が降った。
朝から細かな雨粒が窓を叩き、石畳には馬車の車輪が残した水の筋が幾重にも走っている。
クラウスは濡れた外套を預けた側近から、一通の書簡を受け取った。
外套を預かったアルベルトは、書簡を届けた使者の身元を既定の手順で確認していた。騎士団の職務を離れて王太子に仕えているわけではない。警護担当としての任務と、学院以来の信頼が、ここで重なっているだけだ。
「運営担当者が、思い出したことを書き添えたそうです」
紙には、名簿変更を伝えた使者の外套に薄青い紐飾りがあったと記されていた。
「薄青い紐……それだけでは分からないな」
「王宮の各部署でも使われる色です」
「なら、色だけで人を決めつけないことだ」
クラウスは書簡を置いた。
もう一通、北方から届いた荷の記録には、見慣れない封蝋の印があった。星のようにも花のようにも見える、ごく小さな図柄だ。
彼は二つの書簡を見比べたが、すぐに関連を考えるのをやめた。片方は王宮の式典、もう片方は北方の輸送。似たような時期に届いたというだけでは、同じ問題とは言えない。
昼近くになっても、雨脚は弱まらなかった。
王宮の回廊には濡れた靴跡が続き、遠くで使用人たちが床を拭く音がする。クラウスは書簡の写しを並べ、余白に三つの問いを書いた。
『誰が見たか』『いつ見たか』『何を確かめられるか』。
幼いころ、父王に教えられたのは、報告の数が多いことと、真実に近づくことは同じではないということだった。
机に向かい続けるうち、目の奥が痛くなってくる。
「殿下、少しお休みになっては」
側近が控えめに声をかけた。
「もう一枚だけ」
「その『もう一枚』を、先ほども伺いました」
クラウスは思わず苦笑した。
「私も、学院の若い生徒たちを笑えないな」
彼は書類を閉じた。北方の輸送記録にある印は、誰かが故意に隠したものかもしれないし、単なる商習慣の違いかもしれない。
いずれにせよ、疑いの段階で名前を挙げれば、誤って人を傷つける。
窓辺に立つと、庭の石像の肩を雨が流れていた。王宮は揺るぎないものに見えても、ここで下した判断は遠くの村や商人の暮らしに届く。
だから慎重でありたい。
そう考えていたところへ、扉の向こうから明るい声がした。
その午後、ヴィクトリアが茶菓子を持って訪れた。
「こちらは職人街の新しいお店のものです」
小さな菓子は星形に焼かれ、砂糖が淡く光っている。
「星の形だね」
「可愛らしいでしょう?」
ヴィクトリアはすぐに姿勢を正した。
封蝋の色が話題になった午後、訓練場の片隅で色違いの布を結んだ三本の標的を使った連携稽古が始まった。
「今日も全力でいい?」
「木剣と通常魔法だけ。あと、周りを見て」
ルシアンが先に念を押すと、エレナは「分かってるって」と笑った。細かな違いを見分ける観察力を鍛える。けれど、焦るといつもの間合いに戻ってしまうことも、二人は知っている。
敵役が動いた。エレナが指定された一本だけを打ち、ルシアンが風で布の裏を返して印を見せる。踏み込んだ足の下で小石が鳴り、乾いた木の衝突音が続く。エレナは追撃できる距離にいたが、あえて止まった。後ろの仲間が通り抜けるまで、剣先を低く保つ。
「……今、止まってくれたんだね」
「うん。私だけ先に行っても、みんなが困るから」
ルシアンは小さく頷き、魔法を解いた。フィオナが「色だけで決めつけると間違える」と笑う。エレナは木剣を鞘へ戻し、次の課題を尋ねる。その声はいつもどおり明るかったが、相手の返事を待つ余裕があった。
「……失礼いたしました」
「どうして謝るんだい。君が気に入ったものを知るのは嬉しいよ」
クラウスの言葉に、彼女は少しだけ目を丸くした。
厳格な公爵令嬢として振る舞う時間が長い彼女が、こんなふうに素直な顔をする瞬間を、クラウスは大切に思っていた。
「では、今度は一緒に店を訪れましょうか」
「ぜひ」
束の間の穏やかさが、執務室に戻った。
一方、学院の資料室ではノエルが古い魔法理論書を開いていた。
エレナとルシアン、セレスティーヌが机を囲んでいる。
「聖晶の形を大きくするより、縁を安定させたほうがいいかもしれない」
ノエルが図を指した。
「五秒ほどで消えてしまうのは、魔力の量だけの問題ではないのね」
セレスティーヌは小さく頷いた。
「でも、焦らなくていいよ」
エレナが言う。
「私も剣で、できないことを無理にやると大体怒られるから」
「『大体』じゃなくて『いつも』だと思う」
ルシアンの指摘に、エレナは頬を膨らませた。
笑い声が上がる。
セレスティーヌはその輪の中で、自分がただ守られるだけの人間ではないことを、少しずつ確かめていた。
夕方、クラウスのもとへ封蝋の印に関する返答が届いた。
それは特定の貴族家の紋章ではなく、交易商が一時的に使う荷印に似ているという。
「荷印なら、荷を運んだ人間に聞くしかない」
クラウスは言った。
紙に描かれた小さな印は、何も語らない。
けれど、誰かがその荷を運び、どこかで受け取ったはずだった。




