第96話 言葉の届く距離
フェリクスがクラウスの執務室を訪れたのは、昼の鐘が鳴った直後だった。
「兄上。私の婚約者について、何をお調べなのです」
挨拶より先に飛び出した問いに、クラウスは書類を閉じた。
「式典の記録だよ。セレスティーヌ嬢を調べているわけではない」
「同じことではありませんか」
「違う。誰かの評判と、実際に起きたことは分けて考えるべきだ」
フェリクスは窓の外へ目をやった。
「彼女は近ごろ、私の言葉にいちいち反論する」
「君は、彼女が何に困っているか聞いたことがあるかい」
「婚約者なら、私の立場を理解するべきでしょう」
クラウスは即座に否定しかけ、言葉を飲み込んだ。
弟は、立場という言葉の後ろに自分を隠している。怒鳴れば、その壁は厚くなるだけだ。
「立場を理解することと、黙って従うことは同じではないよ」
「兄上はいつも理想ばかりだ」
フェリクスは立ち上がった。
「私は、私なりに王家のためを考えています」
「それなら、なおさら相手の声を聞いてほしい」
返事はなかった。
扉が閉じたあと、クラウスは長く息を吐いた。
自分は弟を理解できているのだろうか。幼いころから期待され、比べられ、苛立ちを募らせてきたことは知っている。だからといって、誰かを傷つけてよい理由にはならない。
フェリクスが去ったあとも、執務室には重い沈黙が残った。
クラウスは弟が立っていた場所を見つめた。
幼いフェリクスは、兄の剣術稽古をいつも見に来ていた。木剣を振る自分の真似をして、転んでは膝を擦りむいた。あのころは、負けた悔しさを隠さず泣けたのだ。
いつからだろう。弟が『兄上のようにはなれない』と口にしなくなったのは。
代わりに『自分は第二王子なのだから』という言葉が増えた。
「殿下」
側近がためらいがちに声をかけた。
「追いかけますか」
「今はやめておこう。だが、話を終わらせたつもりもない」
クラウスは弟の婚約に関する古い記録を取り寄せるよう命じた。
婚約は二人だけの問題ではない。それでも、当事者の声が置き去りにされてよいはずがなかった。
「まず、何を約束したのかを確かめたい」
窓の向こうに夕陽が沈む。赤く染まる雲の下で、王都の屋根は幾重にも連なっていた。
王家に生まれた者の言葉は、ときに本人の意図より遠くまで届く。だからこそ、言わなかったことにも責任が生じる。
――届かない言葉に疲れた日の夕方。
学院の訓練場では、距離を変えて伝える撤退の合図が用意されていた。今日の課題は、敵役を倒すことではなく、危険を見極めて味方を通すことだ。
「先に突っ込んでいい?」
「まず合図を聞いて。エレナの一歩は、普通の人の三歩分くらい速いから」
ルシアンの返事に、エレナは口を尖らせた。だが、彼が言いたいことも分かる。セレスティーヌの声が届く距離を七人で確かめる。そんなときこそ、慣れた剣に頼りすぎてしまうのだ。
開始の笛が鳴った。ルシアンが風に声を乗せず旗を使い、エレナが旗を確認して木剣を引く。木のぶつかる乾いた音が響き、砂が靴底で小さく鳴った。三人は一度も互いの進路を塞がず、最後の標的が止まったところで構えを解いた。
「今のは、僕が前に出すぎた」
「ううん、私も見てなかった。次は先に言う」
エレナが素直に答えると、ルシアンの目元が緩む。セレスティーヌが「届いたかを確かめるまでが合図です」と言う。勝ったことより、互いの動きを確かめられたことが、今日の収穫だった。
クラウスはその重さを、改めて胸に刻んだ。
その夕方、ハインリヒが王宮の廊下でフェリクスに声をかけた。
「お疲れのご様子ですな」
「兄上は、何も分かっていない」
「王太子殿下には王太子殿下のお立場がございます。殿下には、殿下のお考えがある」
フェリクスは初めて足を止めた。
「……私の考えを、聞いてくださるのか」
「もちろんでございます」
侯爵は頭を下げた。
その礼がどこまで誠実なものか、フェリクスには測れなかった。
学院ではエレナが、ルシアンに少しだけ不機嫌な顔を向けていた。
「また私の訓練時間を減らしたでしょう」
「減らしたんじゃない。休憩を入れたんだ」
「まだ動けるのに」
「動けることと、休んだほうがいいことは別だよ」
言い返そうとして、エレナは口を閉じた。
最近、ルシアンはこうして彼女の体調を気にする。以前からそうだったはずなのに、今はその声が少し近く聞こえる。
「……分かった。今日は休む」
「珍しいね」
「失礼だなあ」
二人は顔を見合わせ、笑った。
離れた廊下では、セレスティーヌがフェリクスからの短い伝言を受け取っていた。
『今後、学院内で私の名を持ち出すな』
胸が冷たくなる。
けれど、彼女は紙を破らなかった。感情のまま返事をすることも選ばなかった。
まず事実として残す。必要な人に相談する。
言葉が届かない相手に向かって、ただ声を大きくするだけが勇気ではない。
セレスティーヌは伝言を封筒に戻し、寮監へ面会を申し込んだ。




