第85話 届かない言葉
フェリクスに直接確かめよう。
そう決めるまでに、セレスティーヌは三日かかった。
友人たちは、彼女の代わりに答えを出そうとしなかった。エレナは「一緒に行こうか」と尋ね、ミレイユは「必要なら待っている」と言い、ノエルは無理をしないようにと茶を淹れてくれた。
だからこそ、セレスティーヌは自分の足で歩きたかった。
放課後、第二王子の控室へ向かう。
廊下には磨かれた石の匂いが漂い、窓から射す光が床に長い帯を作っていた。
「殿下。少しだけ、お時間をいただけますか」
フェリクスは書類から顔を上げた。
「何だ。今度は何を不満に思った?」
「王宮行事の参加名簿についてです。わたくしの名前が、途中で外されておりました」
「それがどうした」
「理由を伺いたいのです。もし、わたくしに至らない点があるのなら、改めたいと思います」
フェリクスはため息をついた。
「君はいつもそうだ。自分の評価ばかり気にしている」
その言葉に、セレスティーヌは息をのんだ。
「わたくしは、評価ではなく……」
「イザベラなら、行事の場を明るくできる。君は緊張した顔で立っているだけだろう」
セレスティーヌは膝の上で握りしめた手を、ゆっくり開いた。
「わたくしが何をすべきか、教えていただけますか」
「まずは、こうして問い詰めるのをやめることだな」
話が、すれ違っている。
謝るべきなのか、説明を求めるべきなのか。以前の彼女なら、きっと前者を選んだ。
けれど、今日は言葉を探した。
「殿下。わたくしは、婚約者として務めを果たしたいと考えております。ですから、必要なことは直接お伝えいただきたいのです」
「君に指図される筋合いはない」
フェリクスは書類に視線を戻した。
「もう下がれ」
セレスティーヌは一礼した。
扉を閉めるまで、泣くまいと決めていた。
しかし廊下へ出ると、目の奥が熱くなった。
誰かに見られたくなくて、人気のない回廊を選ぶ。
その先に、ヴィクトリアがいた。
「セレスティーヌ様」
呼び止められ、セレスティーヌは慌てて目元を押さえた。
「失礼いたしました。少し、風が強くて」
ヴィクトリアは理由を追及しなかった。
「わたくしも、王宮で言葉が届かないと感じたことがあります」
「ヴィクトリア様にも……?」
「ええ。正しい言葉を選べば必ず伝わる、とは限りません。でも、伝えようとした事実は消えませんわ」
セレスティーヌは顔を上げた。
フェリクスに言葉が届かなかった翌日、七人は学院の訓練場に集まった。鐘を鳴らさずに旗だけで連携する試合を見たエレナは、目を輝かせる。
「面白そう! でも、これって何を守る練習?」
「その質問を最初にしてくれて助かったよ」
ルシアンは地面に退路を描いた。言葉を遮られたときの悔しさを、三人の合図の精度に変える。それを言葉にするのは簡単でも、実際に体を動かすと判断は遅れる。
木剣を握ったエレナは、普段の勢いを少し抑えた。模擬敵が迫る。エレナが二度目の斬撃を止めて旗を確認し、ルシアンが風で砂煙を払う。風が袖を引き、木剣の先で乾いた音が弾ける。敵役が下がるまでの数呼吸、エレナは背後の仲間の位置を見失わなかった。
「さっき、すぐ追わなかったね」
「追ったら後ろが空くでしょ。……前はよく忘れてたけど」
「自分で気づけるなら、十分進歩だよ」
ルシアンの言葉にエレナは照れたように鼻をこする。アレクシスが「相手の合図を待つのも強さだ」と言う。見ていた仲間の顔に、緊張が少しずつほどけていった。
「わたくし、うまく話せませんでした」
「それでも、ご自身の言葉でお話ししたのでしょう?」
「……はい」
「ならば、今日のあなたを責めすぎないで」
その前夜、セレスティーヌはフェリクスとの会話を何度も思い返していた。
学院の応接室には、淡い金色の刺繍が施された椅子が二脚並んでいた。二人で向かい合って話すために整えられた部屋なのに、殿下はほとんど椅子に座ろうとしなかった。
「席次の件は、学院側に確認をお願いしております」
「そんな些細なことで私の耳を煩わせるな」
「些細なことかもしれません。ですが、役目を果たすためには確認が必要です」
「君は最近、随分と理屈を並べるようになったな」
その声に、昔の自分ならすぐ頭を下げただろう。
けれど今日は、胸の奥で何かが踏みとどまった。
「殿下のお考えを伺いたかったのです」
「私の考えは変わらない。君は余計な波風を立てずにいればいい」
「では、わたくしが困っていることも、お伝えしない方がよろしいのでしょうか」
フェリクスは答えず、窓辺へ歩いた。
沈黙が続くほど、セレスティーヌは自分が悪いことをしたような気持ちになる。幼いころから、王子の婚約者として恥ずかしくないようにと教えられてきた。礼を欠かさず、声を荒らげず、相手を立てること。その教え自体は大切だ。
でも、相手が自分の言葉を聞こうとしないとき、礼節はどこまで助けになるのだろう。
「もう下がっていい」
振り返らないまま告げられ、セレスティーヌは一礼した。
廊下に出てから、ようやく深く息を吐く。自分が泣いていないことに気づき、少しだけ驚いた。
泣けなくなったのではない。今は、確かめたいことがまだ残っているのだ。
翌朝、ヴィクトリアに会ったとき、セレスティーヌは昨夜の言葉を一つずつ伝えた。
「殿下に、気持ちを伝えられませんでした」
「伝えようとはなさったのでしょう?」
ヴィクトリアは急いで慰めようとせず、彼女の答えを待った。
「はい。でも、最後まで聞いてはいただけませんでした」
「それは、あなたの言葉が存在しなかったということにはなりません」
窓の外で、木々が風に揺れていた。
セレスティーヌは深く息を吸う。
相手が聞かなかったことまで、自分の失敗にしてはいけない。
その考えを、初めて胸に置くことができた。




