第83話 礼節の境界線
翌日の礼法実習では、王宮での小規模な晩餐を想定した席次の演習が行われた。
講師が卓上に名札を並べる。身分、年齢、主催者との関係。それぞれを考慮し、最も適切な席を選ぶ課題だった。
「今回は、実際の宮廷行事に近い条件を用意しました」
セレスティーヌは名札の一枚に、自分の名を見つけた。
隣にはフェリクス、そしてイザベラの名もある。
「面白い題材ですわね」
イザベラはそう言って、何のためらいもなくフェリクスの隣へ自分の札を置いた。
周囲の生徒たちが顔を見合わせる。
講師はすぐに口を挟まなかった。生徒が理由を説明するのを待っているのだろう。
「殿下と親しくお話しする機会が多い方が、隣席にふさわしいと思いましたの」
イザベラの声は明るい。
セレスティーヌは胸の奥がきゅっと縮むのを感じた。
「今回の条件には、正式な婚約関係も含まれております」
自分でも驚くほど、小さな声だった。
「もちろん存じていますわ。でも、実際の親しさも大切でしょう?」
「席次は、親しさだけで決めるものではありません」
言い切った途端、周囲の視線が集まった。
イザベラの笑みが薄くなる。
「わたくしの判断が誤りだと?」
セレスティーヌは答えに詰まった。
間違いを指摘したかったわけではない。けれど、自分の立場をなかったことにされるのは、違うと思った。
「お二人とも、理由を整理してみましょう」
講師が穏やかに割って入った。
演習は続いたが、セレスティーヌはその後の説明をほとんど覚えていなかった。
授業の終わり、フェリクスが廊下で待っていた。
「君は人前でイザベラを恥じ入らせたそうだな」
「礼法の課題について、お話ししただけです」
「自分が正しいと示したかったのだろう」
「そのようなつもりでは……」
「なら、もっと言い方を考えることだ」
セレスティーヌは頭を下げた。
しかし、足音が遠ざかったあとも、納得はできなかった。
庭へ出ると、エレナが木剣を持って歩いてきた。
「セレスティーヌ、顔色が悪いよ」
「少し、失敗してしまって」
事情を聞いたエレナは、しばらく考えた。
「剣の試合だったら、相手が踏み込んできた場所をそのまま渡しちゃいけないと思う」
「……剣の試合、ですか?」
「うん。でも、相手を傷つけなくても、ここから先は駄目って伝える方法はあるでしょ」
エレナは木剣を地面に立て、足元に細い線を引いた。
「この線を守るのと、相手を倒すのは別のことだよ」
セレスティーヌはその線を見つめた。
礼法の授業が終わった後も、セレスティーヌは教室の扉の前で足を止めていた。
磨かれた廊下には高い窓から光が落ち、壁の肖像画に描かれた歴代の貴族たちが、黙ってこちらを見下ろしているようだった。
「ベルクハルト様」
礼節を巡る会話のあと、訓練場の片隅で床に引いた白線を越えずに戦う模擬戦を使った連携稽古が始まった。
「今日も全力でいい?」
「木剣と通常魔法だけ。あと、周りを見て」
ルシアンが先に念を押すと、エレナは「分かってるって」と笑った。言葉で線を引くのと剣で間合いを取ることの似た難しさを確かめる。けれど、焦るといつもの間合いに戻ってしまうことも、二人は知っている。
敵役が動いた。エレナは一歩踏み込みかけて止まり、ルシアンの水の牽制を剣先で払い、線を守る。踏み込んだ足の下で小石が鳴り、乾いた木の衝突音が続く。エレナは追撃できる距離にいたが、あえて止まった。後ろの仲間が通り抜けるまで、剣先を低く保つ。
「……今、止まってくれたんだね」
「うん。私だけ先に行っても、みんなが困るから」
ルシアンは小さく頷き、魔法を解いた。ルシアンが「踏み込まない強さもある」と認める。エレナは木剣を鞘へ戻し、次の課題を尋ねる。その声はいつもどおり明るかったが、相手の返事を待つ余裕があった。
振り向くと、先ほど意見を交わした令嬢が立っていた。手には授業で使った礼法書を抱えている。
「先ほどは、少し強い言い方をしてしまいましたわ」
「いいえ。わたくしこそ、言葉を選べませんでした」
「王家の婚約者としての立場を考えれば、慎重であるべきだと思っただけですの」
「そのお気持ちは分かります。ですが……」
言いかけて、セレスティーヌは息を整えた。
「慎重であることと、何も言わないことは同じでしょうか」
令嬢はすぐには答えなかった。
「難しい問いですわね」
「わたくしも、まだ答えを持っておりません」
無理に微笑む代わりに、正直にそう告げた。
相手は意外そうに瞬きをし、それから小さく会釈して去っていった。
ひとり残されたセレスティーヌは、胸の鼓動が早くなっていることに気づく。たった二言、意見を伝えただけなのに、長い訓練を終えた後のように疲れていた。
「セレスティーヌ!」
階段の向こうからエレナが手を振った。隣にはルシアンもいる。
「待たせちゃった? ごめんね。先生に剣の持ち方を聞いてたら長くなって」
「それは質問が一つでは済まなかったからだよ」
ルシアンの落ち着いた指摘に、エレナは目を逸らす。
「……三つくらい」
「七つだよ」
セレスティーヌは思わず笑ってしまった。
この二人の前では、正しい答えを即座に出せなくても責められない。その安心が、先ほどの問いをもう一度考える勇気に変わる。
「わたくし、今日初めて、意見が違う方に自分の考えをお伝えしました」
「すごいじゃない!」
「でも、うまくできたかは分かりません」
「うまく言えなかったところは、次に考えればいいと思う」
ルシアンの言葉は静かだった。
「一度で全部正しくする必要はないから」
自分の言葉が上手でなかったことは認められる。けれど、言葉を発したこと自体を間違いにしたくはなかった。
「次は、もう少し落ち着いてお話ししてみます」
「うん。それがいいと思う」
エレナが笑う。
セレスティーヌはようやく息を吐いた。
礼節とは、ただ黙って譲ることではない。
その考えはまだ小さく、けれど確かに彼女の中に残った。




