第82話 五人の食卓に戻るまで
セレスティーヌが食堂に戻ったとき、昼の賑わいはすっかり引いていた。
窓際の卓には、エレナたち四人が残っている。ミレイユが書物を広げ、フィオナが紙片に何か書きつけ、ノエルは冷めかけた茶器を手で包んでいた。
「おかえり、セレスティーヌ」
エレナは当たり前のように椅子を引いた。
「遅くなって、ごめんなさい」
「謝ることじゃないわ。座って」
その何気ない言葉に、セレスティーヌは泣きそうになった。
座ることを許される。それだけのことが、こんなにもありがたい。
ミレイユは彼女の顔を見て、何も尋ねずに温かい茶を注いだ。
「甘いもの、食べられそう?」
「ええ。少しだけ」
ノエルの包みを開けると、丸いビスケットが二枚並んでいた。
「ちゃんと持っていてくれたんだ」
「もちろんですわ」
ひと口かじる。ほろりと崩れる生地に、かすかな蜂蜜の香りがした。
しばらくして、セレスティーヌは自分から口を開いた。
「今日の昼餐会で、殿下にお叱りを受けました」
フィオナのペンが止まる。
「何を?」
「友人との付き合い方についてです。わたくしの振る舞いが、軽率に見えるのではないかと」
「私たちとお昼を食べるのが?」
エレナは首をかしげた。怒るより先に、本気で意味が分からないという顔だった。
セレスティーヌは思わず小さく笑った。
「わたくしも、そう思いたいのですけれど」
「だったら、そう思っていいんじゃない?」
「エレナ、立場というものがあるのよ」
ミレイユが静かに口を挟む。
「でも、立場があることと、友達を選ぶ権利がないことは別でしょう」
フィオナは頷いた。
「商売でも、相手の看板だけ見て付き合うと失敗するもの。中身を見ないと」
「あなたらしい例えね」
セレスティーヌの笑顔は、今度は少し自然だった。
放課後、彼女は家へ手紙を書くことにした。
伯爵家には、王家との婚約に関する正式な連絡が届く。だからこそ、父と母が人づてに自分の様子を知るより、先に自分の言葉で伝えたかった。
便箋の上で、ペン先が止まる。
『わたくしは元気にしております』
書きかけて、線を引いた。
嘘ではない。けれど、すべてでもない。
『学院では、心を許せる友人に恵まれました。殿下との間には、まだ上手にお話しできないこともございます』
そこまで書くと、指が震えた。
廊下から足音が聞こえ、開いた扉の向こうにアレクシスが現れた。訓練場の使用許可を伝えに来たらしい。
「明日の午後、訓練場が空いた。無理のない範囲で、また一緒にやらないか」
彼はセレスティーヌの手元を見ないようにしていた。
「……ありがとうございます。参加したいです」
「そうか。なら、待っている」
昼食後、五人がようやく落ち着いたころ、学院では小規模な護衛演習が行われた。庭の低い石段と、転がる木球を使うと聞いて、エレナは木剣の握りを確かめる。
「速く片づければいい、という課題じゃないんだね」
「そう。相手を止めても、守るものを壊したら失敗だ」
ルシアンはそう言って、仲間の立つ位置を指さした。セレスティーヌの食欲が戻らないのを見て、エレナが短い稽古に誘う。エレナも頷く。目の前の敵役だけを見れば、彼女の剣は速い。けれど、守りたい人はいつも背後にいる。
笛が鳴る。エレナが木球を剣の腹で止め、ルシアンが風を弱く当てて軌道を変える。木剣と盾が触れる鈍い音、風の低い唸り、靴底が床を擦る音が短く重なった。訓練が終わると、エレナは額の汗を袖で拭った。
「私、一歩だけ遅かった?」
「半歩かな。でも、その半歩で後ろが安全になった」
「じゃあ、次も同じようにする!」
「状況が同じならね」
ルシアンの慎重な答えに、エレナは笑う。ミレイユが「剣の稽古なのに、お皿を守る練習みたい」と笑う。勝敗よりも、何を守れたかが二人の話題になっていた。
それ以上は聞かず、アレクシスは笑って去った。
気遣われているのだと分かる。けれど、踏み込まれなかったことがありがたかった。
その日の午後、女子寮の談話室には焼き林檎の香りが満ちていた。
フィオナが商会から届いた小さな瓶を卓に並べ、ミレイユが色とりどりの布切れを広げている。ノエルは薬草茶の湯気を確かめ、エレナは椅子に腰を下ろすなり焼き菓子へ手を伸ばした。
「エレナ、それはまだ五人分に分けていないわ」
「えっ。……半分にして戻したら駄目?」
「戻すって何よ」
ミレイユの呆れた声に、皆が笑った。
セレスティーヌもつられて笑い、少し遅れて、自分が笑えたことに驚いた。
「ねえ、セレスティーヌ」
フィオナが瓶の蓋を閉める。
「今日のこと、聞いてもいい? 嫌なら、別の話をする」
「……少しだけなら」
セレスティーヌは昼餐会で席を離されていたことを話した。殿下の言葉も、できる限りそのまま伝えた。話している途中で、自分の声が細くなるのが分かった。
「それ、あなたが悪いわけじゃないでしょう」
ミレイユはすぐに言ったが、ノエルがそっと首を振った。
「まず、最後まで聞こう」
ミレイユは唇を結び、やがて小さく頷く。
「……そうね。ごめん、セレスティーヌ」
「いいえ。怒ってくれて、少し嬉しかったの」
そう口にした瞬間、セレスティーヌは目を伏せた。誰かに怒ってもらうことで、自分の悲しさを確かめようとしているようで恥ずかしかった。
「嬉しいなら、それでいいと思うよ」
エレナが何のためらいもなく言う。
「でも、次に同じことがあったら、どうしたいかも考えておこう。私たちにできることがあれば言ってね」
剣を握るときのような、真っすぐな目だった。
守られてばかりではいたくない。セレスティーヌは膝の上で指を組み直す。
「父に、学院でのことを書いてみます。心配をかけたくなくて、今までは良いことばかり伝えていましたから」
「それはいいと思う」
ノエルが湯飲みを差し出す。
「文章にすると、気持ちが整理できることもあるよ」
温かい器を両手で包むと、冷たかった指先が少しずつ戻ってきた。
手紙の続きを書く。
『心配をおかけするかもしれません。それでも、わたくし自身で考え、できることを増やしていきたいと思っています』
封筒を閉じたとき、窓の外には夕暮れが広がっていた。
明日も何かが変わるとは限らない。
それでも、今日の自分は昨日より少しだけ正直だった。




