第81話 呼び出し状の朝
始まりは、思いのほか静かな朝だった。
学院の鐘が鳴るより少し早く、セレスティーヌは寮の机に置かれた封筒を見つめていた。
王家の紋章を押した封蝋。宛名は彼女の名で、差出人は第二王子フェリクスの側近だった。
「本日の昼餐会に、ベルクハルト伯爵令嬢の出席を求める」
短い文面に、理由はなかった。
昨夜、友人たちと笑いながら分け合った焼き菓子の甘さが、急に遠いものになる。
セレスティーヌは招待状を折り直し、制服の襟を整えた。鏡の中の少女はいつもどおり背筋を伸ばしている。それなのに指先だけが冷たかった。
「大丈夫。お話を聞いて、必要なことをお答えするだけ」
声に出してみても、胸の鼓動は落ち着かなかった。
午前の授業が終わるころ、エレナたちは食堂で彼女を待っていた。
「今日は一緒に食べられないの?」
エレナの問いに、セレスティーヌは封筒を見せる。
「殿下から、お呼び出しがありましたの」
ミレイユが眉をひそめた。
「急ね。昨日まで何もおっしゃっていなかったでしょう」
「きっと、お忙しかったのだと思います」
自分でも、ずいぶん慣れた答えだと思った。
ノエルが小さな包みを差し出す。
「お昼を食べ損ねたら、これを。薬草茶に合う、甘さ控えめのビスケット」
「ありがとう、ノエル」
フィオナは周囲を一度見渡してから、いつもの明るさを少し抑えて言った。
「困ったことがあったら、帰ってきてから聞かせて。話したくないことは、話さなくていいから」
その言葉に、セレスティーヌの肩がわずかに下がった。
昼餐会の会場は、学院の貴賓室だった。
扉を開けると、長い卓の中央にフェリクスが座り、その隣にはイザベラ・ヴァイスベルクがいた。
「遅いな」
約束の時刻より早く着いたはずだった。セレスティーヌは反論を飲み込み、一礼する。
「お待たせいたしました、殿下」
「まあ、ベルクハルト様。お席はこちらですわ」
イザベラが示したのは、卓の端だった。
フェリクスの隣にはすでに彼女の皿が置かれている。婚約者のための席がどこにあるかを、誰も説明しなかった。
給仕が椅子を引く音が、妙に大きく響いた。
「北方の騒ぎで、学院も落ち着かない。余計な噂を広める者には困る」
フェリクスはセレスティーヌを見ずに言った。
「わたくしも、根拠のない噂には気をつけております」
「ならばいい。最近、君はずいぶん友人と楽しそうだな」
「皆さんには、助けていただいております」
「王子の婚約者が、誰とでも気安く付き合うのは考えものだ」
セレスティーヌは膝の上で手を重ねた。
友人たちの笑顔を思い浮かべる。あの時間を、恥ずべきものとして扱われたくはなかった。
「皆さんは礼節を守ってくださっています。わたくしも、立場を忘れたつもりはございません」
フェリクスが初めて彼女を見た。
王宮からの呼び出しを受けた朝、七人は学院の訓練場に集まった。細い通路に見立てた二列の木柱を見たエレナは、目を輝かせる。
「面白そう! でも、これって何を守る練習?」
「その質問を最初にしてくれて助かったよ」
ルシアンは地面に退路を描いた。礼装のままでは動けないという不安を、エレナが足運びの練習に置き換える。それを言葉にするのは簡単でも、実際に体を動かすと判断は遅れる。
木剣を握ったエレナは、普段の勢いを少し抑えた。模擬敵が迫る。エレナが刃を寝かせて標的の木剣を逸らし、ルシアンが風で背後の布標的を揺らして敵役の視線を外す。風が袖を引き、木剣の先で乾いた音が弾ける。敵役が下がるまでの数呼吸、エレナは背後の仲間の位置を見失わなかった。
「さっき、すぐ追わなかったね」
「追ったら後ろが空くでしょ。……前はよく忘れてたけど」
「自分で気づけるなら、十分進歩だよ」
ルシアンの言葉にエレナは照れたように鼻をこする。セレスティーヌが「逃げ道を作ることも、守ることですね」と言う。見ていた仲間の顔に、緊張が少しずつほどけていった。
「口答えか?」
室内の空気が張りつめる。
イザベラが柔らかく笑った。
「殿下は心配していらっしゃるだけですわ。ベルクハルト様も、誤解なさらないで」
「……承知しております」
けれど、心配という言葉がどこにあったのか、セレスティーヌには分からなかった。
前菜の皿が下げられるまで、セレスティーヌは一度も自分から話題を変えられなかった。
窓際には白い花が飾られている。朝露を模した硝子の飾りが陽を受けてきらめき、卓上の銀器に細い光を落としていた。こんなにも美しい部屋で、なぜ息をすることさえ難しいのだろう。
「ベルクハルト様は、最近、学院の行事にも積極的だそうですわね」
イザベラが銀の匙を静かに置いた。
「はい。友人たちと、できる範囲でお手伝いをしております」
「素晴らしいことですわ。ただ、王家に連なる方には、ふさわしい優先順位がございますでしょう?」
「……優先順位、ですか」
「ええ。どなたと過ごすかも、その一つですもの」
彼女の声は柔らかかった。だからこそ、セレスティーヌは言葉の棘をうまく取り出せなかった。
フェリクスは葡萄酒の代わりに注がれた果実水を口に運び、興味なさそうに窓の外を見ている。
「殿下は、わたくしにどのような務めをお望みでしょうか」
ようやく問いかけると、彼は不機嫌そうに眉を動かした。
「いちいち説明しなければ分からないのか。婚約者なら察するべきだろう」
胸の奥が小さく縮む。
察しようと努めてきた。手紙の言葉を選び、礼法書を読み返し、殿下の機嫌を損ねた日には自分の振る舞いを何度も思い出した。それでも、答えはいつも後から変わる。
「失礼いたしました。ですが、わたくしにも間違いなく務めを果たしたいという気持ちがございます」
「なら、まずは余計なことを言わないことだ」
返事をする前に、給仕が温かいスープを運んできた。
セレスティーヌは礼を述べ、匙を取った。指先が震えていることに気づかれないよう、布巾の下でそっと手を握り直す。
いつか、殿下と穏やかに話せる日が来ると信じていた。
その願いを手放すのが怖いのか。それとも、願い続けている自分が怖いのか。
まだ、答えは出なかった。
食事の味はほとんど覚えていない。
貴賓室を出ると、廊下の窓から午後の日差しが差し込んでいた。温かい光なのに、胸の奥は冷えたままだった。
制服のポケットに、ノエルの包みが入っている。
セレスティーヌはそれをそっと握った。
自分の席がどこにあるのか。
その問いに、今日はまだ答えを出せなかった。




