第1話 旅立ちの朝
木剣が、乾いた音を立てて折れた。
「……あ」
手の中に残ったのは、柄から先が半分ほどになった木剣だった。折れた先端は、朝露に濡れた庭の芝生を滑って、花壇の縁で止まる。
私はしばらくそれを見つめ、それから恐る恐る顔を上げた。
「お祖父さま。今のは、その……」
「八本目だな」
向かいに立つ祖父アルフレッドは、ひどく満足そうにうなずいた。
「今年に入って八本目だ。よい踏み込みだったぞ、エレナ」
「褒めるところですか?」
「もちろんだ。最後の一撃は悪くなかった。だが肩が少し上がったな。相手が本物の剣を持っていたら、その隙を狙われる」
お祖父さまは折れた木剣より、私の構えのほうが気になるらしい。
今日は王都へ出発する日だというのに、朝食前の稽古だけはいつもどおりだった。いいえ、むしろいつもより長い。お祖父さまは「しばらく手合わせできんからな」と言い、私は「最後だから」とつい付き合ってしまったのだ。
リーヴェルト子爵家の庭は、北方の澄んだ空気に包まれている。遠くには白銀の森が見え、その向こうには青みを帯びた山々が連なっていた。生まれてから十六年、見慣れた景色だ。
今日、私はこの場所を離れる。
王立セレスティア学院に入学するために。
「それで、エレナ」
お祖父さまが、急に真面目な声を出した。
「学院では、できるだけ手加減を覚えるのだぞ」
「わかっています。普通に、ほどほどに、ですよね」
「うむ。相手の力量を見て、剣を合わせるのだ」
私は力強くうなずいた。王都へ行く前に、家族から何度も言われたことだ。
目立たないこと。無用な騒ぎを起こさないこと。そして、普通の令嬢として過ごすこと。
実を言えば、私もそのつもりだった。
剣を振るのは大好きだけれど、学院には授業もお茶会もある。新しい友達だってできるかもしれない。今までとは違う、穏やかで楽しい毎日を送ってみたい。
「でも、普通って難しいですね」
「なに、心配はいらん。おまえはよくできる子だ」
お祖父さまは胸を張った。
この言葉を、私は半分だけ信じることにしている。
なにしろ、お祖父さまは昔、王国の騎士たちを率いていた方だ。そんな人に「よくできる」と言われても、一般的な十六歳の令嬢と比べてどうなのかは、いまひとつわからない。
「お嬢さまーっ!」
屋敷のほうから、侍女の声が飛んできた。
「朝食のお時間です! それから、奥さまが『出発の日に泥だらけで食卓へ来たら承知しません』と!」
私は自分の袖を見下ろした。泥が少し、いや、かなりついている。
「……急いで着替えます」
「その前に素振りをもう十回――」
「お祖父さま!」
侍女の声がもう一度響き、お祖父さまは残念そうに口を閉じた。
屋敷に戻ると、食堂にはすでに家族がそろっていた。
父グレゴールは新聞から目を上げ、母セシリアは私の袖を見るなり眉を寄せた。兄ヴィクトルは苦笑し、姉クラリスは静かにお茶を置く。祖母マリアンヌだけは、何もかもわかっているという顔で微笑んでいた。
「エレナ。今日は旅立ちの日なのよ」
お母さまの声は柔らかい。けれど、その柔らかさがかえって恐ろしいときもある。
「はい。申し訳ありません」
「まったく。学院の初日から剣を折ったりしないでちょうだい」
「今日は折ってしまいましたけど、学院では気をつけます」
食堂が一瞬、静かになった。
「……また折ったのか?」
お父さまが新聞をたたむ。
「八本目です」
私が答えると、兄さまは吹き出しそうになって口元を押さえた。
「父上、木剣の材料を変えたほうがいいのでは?」
「変えたら余計に力加減を覚えなくなるだろう」
「それもそうですね」
どうして皆、そんなに真剣に話し合うのだろう。
「エレナ」
お姉さまが私を呼んだ。
「学院では、相手がどう感じるかも考えて行動するのよ。あなたにとって何でもないことが、ほかの人には驚くようなこともあるの」
「はい、お姉さま」
「それと、困ったことがあれば一人で抱え込まないこと。手紙をくれれば相談に乗るわ」
クラリスお姉さまは、いつも言葉を選んで話してくれる。私が王都の貴族社会を少し怖がっていることも、きっと気づいているのだ。
「ありがとう、お姉さま」
向かいの席で、妹のリリアが頬を膨らませた。
「お姉さまばっかりずるいです。わたしも学院に行きたい!」
「リリアはあと四年あるでしょう?」
「四年も待てません。お姉さまがいない間、誰と剣の稽古をすればいいんですか」
「お祖父さまがいるじゃない」
「お祖父さまは、わたしが勝つまで終わらせてくれません」
それは確かに大変そうだ。
「リリア、おまえは昨日、わしに三十回も勝負を挑んできたではないか」
「三十一回目です。最後は引き分けでした」
祖父と妹が真剣に言い合いを始め、食卓に笑い声が広がった。
私はこの時間が好きだった。
皆が好きなことを言い、笑い、ときどき誰かが叱られる。こんな毎日が、これからもずっと続くと思っていた。
けれど、少なくとも三年間は、学院の寮で暮らすことになる。
胸の奥が、ほんの少しだけ寂しくなった。
朝食のあと、お祖母さまが私を自室へ呼んだ。
机の上には、小さな銀の留め具がついた革袋が置かれていた。
「魔力の調整に使う補助具よ。必要なときだけ使いなさい」
「ありがとうございます」
「それから、エレナ」
お祖母さまは私の手を包んだ。細く見える指先から、落ち着いた魔力が伝わってくる。
「雷の魔法については、約束を覚えているわね?」
私はうなずいた。
九歳のとき、初めて使えた不思議な魔法。水でも、風でも、火でも、土でもない、青白い光を走らせる力。
あの魔法を使えることを知っているのは、家族と、幼馴染のルシアンだけだ。
「学院では使いません。誰にも話しません」
「ええ。あなたを縛りたいわけではないの。ただ、知られていない力には、知ろうとする人が集まるものだから」
お祖母さまの声には、いつもの穏やかさの奥に、少しだけ硬い響きがあった。
「もし本当に誰かを守るために必要になったら?」
私が尋ねると、お祖母さまは少し考えてから答えた。
「そのときは、自分で選びなさい。ただし、選んだあとのことまで考えるのよ」
簡単な答えではなかった。
だからこそ、忘れないでおこうと思った。
部屋に戻ると、荷物はすっかり整えられていた。
制服、教科書、手紙を書くための便箋。それから、どうしても持っていきたかった剣が三本。
「お姉さま」
扉から、リリアが顔をのぞかせた。
両手を背中に隠している。何か企んでいるときの顔だ。
「どうしたの?」
「これ、あげます」
差し出されたのは、淡い緑色のハンカチだった。端には小さな花の刺繍がある。少し不揃いな糸目が、かえって可愛らしい。
「リリアが縫ったの?」
「はい。お姉さまが、学院で寂しくならないように」
妹は胸を張った。
「それと、もし意地悪な人がいたら、その人の名前を書いて送ってください。わたしが大きくなったら――」
「リリア」
「……お手紙を書きます」
どうやら、もっと物騒なことを言うつもりだったらしい。
私は笑って、ハンカチを大切にたたんだ。
「ありがとう。ずっと持っているね」
リリアは嬉しそうに笑い、それから急に私へ抱きついた。
「早く帰ってきてください」
「長いお休みには帰るわ」
「絶対ですよ」
「絶対」
小さな背中を抱きしめると、今度こそ本当に、旅立つのだという実感が湧いた。
玄関前には、王都へ向かう馬車が待っていた。
お父さまは旅の安全を確かめ、お母さまは襟元を直してくれた。兄さまは「剣の腕を見せびらかすなよ」と笑い、お姉さまは「困ったら必ず相談して」ともう一度言った。
お祖父さまは最後まで「構えは低く」と助言し、お祖母さまはただ、私の手をそっと握った。
「行ってまいります!」
私は深く頭を下げ、馬車へ乗り込んだ。
窓の向こうで、家族が手を振っている。リリアだけは両手を大きく振りすぎて、危うくお父さまにぶつかりそうになっていた。
馬車が動き始める。
見慣れた屋敷が少しずつ遠ざかり、白銀の森へ続く道が朝日に照らされた。
私は膝の上で、リリアのハンカチをそっと握る。
王立学院には、どんな人たちがいるのだろう。
ルシアンとは三年ぶりに会う。手紙では何度も話していたけれど、背は伸びただろうか。昔みたいに、私の稽古に付き合ってくれるだろうか。
剣術の授業も楽しみだし、魔法の授業では知らない術式を学べるかもしれない。お茶会で友達を作るのも、少し緊張するけれど楽しみだった。
でも、何より大切なのは――。
「普通に、平穏に」
私は小さくつぶやいた。
誰にも驚かれず、誰にも迷惑をかけず、楽しい学院生活を送る。
それが私の、新しい目標だ。
窓の外で、北の空がどこまでも青く広がっていた。
このときの私は、まだ知らなかった。
私の考える「普通」が、王都では少しばかり通用しないということを。




