プロローグ7 フィオナ 商人令嬢は世界を見たい
七人目、最後のプロローグは、準男爵家の令嬢・フィオナのお話です。
商家に生まれ、さまざまな人や品物に触れて育った彼女。
新しい世界への好奇心を胸に、いよいよ学院生活へと踏み出します。
――フィオナ・ウェストフィールド――
「この箱、王都に着く前に開けちゃ駄目よ!」
倉庫番のおじさんが叫んだ。
「開けないってば。札を確認しただけ!」
「さっきから三箱目だぞ」
「だって、荷札の文字が違うんだもの」
私は木箱の角を指さした。ウェストフィールド商会の倉庫には、国内の織物、帝国から届いた金属細工、東方の香辛料、学術都市アルテナの魔導具部品が並んでいる。
この箱には『王都支店』と書かれているのに、封蝋の色が別の支店のものだった。
「ほら、確認してよ」
倉庫番が帳簿をめくり、目を丸くした。
「おっと、これは積み替えのときに間違えたな」
「でしょ?」
「お嬢様には敵わない」
私は胸を張った。商売は好きだ。品物が誰の手から誰の手へ渡り、どんな暮らしを支えるのかを考えるだけで、世界が広がる気がする。
けれど、商会の娘として扱われることには、ときどき疲れる。
午後、取引先の集まりで、ある令嬢に声をかけた。
「その髪飾り、素敵ね。どこの職人さんのもの?」
「……ウェストフィールド家の方?」
「そうよ。フィオナって呼んで」
「商売の話なら、父にお伝えください」
令嬢は微笑んだまま、少し距離を取った。
私は手にした果実水を見下ろした。髪飾りが本当に綺麗だと思っただけなのに。
家格が違うから、と言われることもある。商会が大きくても、私の家は男爵より下の爵位だ。人によっては、親しく話すことさえ不思議に思うらしい。
「フィオナ、顔に出てるぞ」
父が隣に立った。
「出してないわよ」
「じゃあ、その果実水はなぜそんなに睨まれているんだ?」
私は慌ててグラスから目を離した。
「……私、商売の話以外もできるのに」
「知ってるよ」
「お父さまは家族だから」
「学院へ行けば、家の看板を知らない相手もいるさ」
私は少し考えた。
「知られていても、友達になれる人がいいな」
「そのほうが、もっといい」
父は笑った。
家へ戻ると、母が入学用の鞄を整えていた。制服の横には、小さな旅行記が二冊置かれている。
「これ、持っていってもいい?」
「もちろん。でも授業中に読まないでね」
「そんなことしないわ」
母が片眉を上げた。私は目を逸らす。
旅行記には、西のヴァルディア帝国の市場や、東のエルシオン神聖国の古い街道のことが書かれていた。いつか実際に見てみたい。けれど、本で読む世界と、そこに暮らす人たちの現実はきっと違う。
「学院には、いろんな家の子が来るんでしょう?」
「ええ。貴族も、学問を志す子も。あなたとは違う考えの人もいるでしょうね」
「楽しみ!」
「その勢いで質問攻めにしないこと」
「……気をつけます」
夕食後、私はラングフォード家のミレイユから届いた短い便りを読み返した。彼女とは商会同士の取引で何度か会ったことがある。布の話になると真剣で、でも人の顔色をよく見ている。
『学院で会ったら、一緒に食堂を探しましょう。今度は仕事の話抜きで』
私はすぐに返事を書いた。
『賛成! でも、おいしいお菓子を見つけたら、どこの店が作っているかだけ教えてね』
書き終えてから、これでは結局商売の話だと気づいた。
「まあ、いいか」
私らしさまで隠す必要はないはずだ。
出発の前夜、父は商会の帳場で私を待っていた。広い机の上には、国境を越える交易路が描かれた地図が広がっている。私は幼いころから、この地図を見るのが好きだった。遠くの国の名前を指で辿るだけで、知らない街の匂いまで想像できたからだ。
「フィオナ。学院へ行っても、商会のことばかり考えなくていい」
「えっ、いつもは帳簿を読めって言うのに?」
「帳簿は逃げない。十六歳の学院生活は一度きりだ」
父は笑ったが、その目は真剣だった。
「家の名を使って得をすることもある。反対に、家の名だけで軽く見られることもあるだろう。だが、おまえ自身を知ってもらう前に諦めるな」
私は机の端を指でなぞった。以前、ある貴族の集まりで『商人の娘は計算が得意で結構ね』と言われたことがある。褒め言葉の形をしていたけれど、その人は私の話を一度も聞こうとしなかった。
「私、ちゃんと友達ができるかな」
「おまえが相手を客だと思わなければな」
「失礼ね。私だって、友達には値札を付けないわ」
「なら大丈夫だ」
父の言葉に、私は吹き出した。商会の人たちに囲まれて育ったせいで、私は初対面でもすぐ話しかける。でも、話しかけることと、相手の気持ちを聞くことは別だ。学院では、そこを覚えたい。
父は地図を畳み、小さな方位磁針を渡してくれた。
「迷ったときに使いなさい」
「学院の中で?」
「道だけとは限らないさ」
私は磁針を掌で転がした。針は小さく揺れながら、やがて北を指した。
翌朝、王都へ向かう道は馬車で賑わっていた。荷を積んだ商人、旅装の学生、家族に見送られる子供たち。みんな、それぞれの目的地を持っている。
私は窓を開け、春の風を吸い込んだ。
「お嬢様、冷えますよ」と御者が言う。
「少しだけ! この景色、覚えておきたいの」
道の向こうに、王都セレスティアの塔が見え始めた。
きっと学院には、私の知らないものがたくさんある。私の知らない悩みも、喜びも。家の名を聞いて顔をしかめる人だっているかもしれない。
それでも、私は話しかけたい。
相手が何を好きなのか、何を大切にしているのか、聞いてみたい。
鞄の中で旅行記が揺れた。私はその上に置いた新しい手帳を開き、一頁目に大きく書く。
『学院でやりたいこと。一、友達を作る。二、知らない世界を知る。三、おいしいお菓子を見つける』
四つ目を書こうとして、ペンを止めた。
まだ決めなくてもいい。きっと、出会った人たちが教えてくれる。
同じころ、北の道から一台の馬車が王都へ向かっていた。別の屋敷では、再会を待つ少年が荷物を確かめている。王子の婚約者は静かに深呼吸し、盾を携えた少年は訓練の痛みを思い出す。布を愛する少女と、薬草園を離れる少女も、それぞれ新しい制服を鞄に収めていた。
私はまだ、その誰のことも知らない。知っている顔も、学院ではきっと違って見えるだろう。
馬車が城門をくぐった。
「さあ、始まるわ!」
声に出すと、胸の奥が弾んだ。
馬車が王都の門へ近づくと、商人たちの声がいっそう賑やかになった。焼き栗の香り、荷車の軋む音、旅人が交わす知らない土地の言葉。私は窓から身を乗り出しそうになって、御者にたしなめられた。
「お嬢様、危ないですから」
「わかってる。でも、あのお店の看板、見た? 帝国の文字が混じってる!」
「見えましたとも。まずは座ってください」
私は笑って腰を下ろした。鞄の中では、父にもらった方位磁針が小さく鳴った。
ふと、これから会う人たちのことを考える。剣が好きな人、魔法が好きな人、静かな図書室を好む人。自分と全然違う相手と話せたら、どんなに面白いだろう。逆に、私の声が大きすぎて驚かせるかもしれない。そのときは謝って、もう一度話しかければいい。
「ねえ、王立学院の食堂って、どんな料理が出るのかしら」
「さあ。商会の支店に聞けば調べられますが」
「それは駄目。初めての楽しみに取っておくの」
御者が笑った。私は窓の向こうに見え始めた学院の塔を見上げる。
まだ名前も知らない誰かが、あの塔の下で同じように胸を弾ませているかもしれない。そう思うと、初めての場所が少しだけ懐かしく感じられた。
七つの道が、同じ学院へ続いている。
けれど私たちはまだ、その道が交わる瞬間を知らなかった。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
これで、七人それぞれの入学前日譚はおしまいです。
生まれも育ちも、性格も願いも違う七人。
そんな彼らが、いよいよ王立セレスティア学院で出会います。
次回からは、第一部「王立学院編」が始まります。
平穏な学院生活を望むエレナと、彼女を取り巻く仲間たちの物語を、引き続きお楽しみいただければ幸いです。




