プロローグ6 ノエル 小さな薬草園の約束
男爵家の令嬢・ノエルのお話です。
薬草や魔法の研究を好み、静かな時間を大切にする彼女。
そんなノエルが学院で見つけたいものとは、何なのでしょうか。
――ノエル・アシュフォード――
朝露のついた葉は、触ると少し冷たい。
私は薬草園の小道にしゃがみ、細い茎をそっと持ち上げた。淡い紫の花が二輪、風に揺れている。昨日より花弁が開いた。ノートに日付と天気を書き込む。
「また朝食前からここにいたのかい」
父の声がした。
「あと少しだけ。日陰の株も見ておきたいの」
「入学前日くらい、休んでもいいんだぞ」
「……休んでいるつもりなの」
父は笑い、隣にしゃがんだ。男爵家の庭は広くない。それでも父と母が少しずつ増やしてきた薬草は、季節ごとに違う香りを届けてくれる。
「学院にはもっと立派な温室があるそうだ」
「知ってる。図書館にも、薬草学の本がたくさんあるって」
「楽しみかい?」
私は頷きかけ、少し迷った。
「楽しみ。でも……人がたくさんいるでしょう」
父は何も言わず、続きを待ってくれた。
「話しかけられたら、ちゃんと答えられるかな。私、言葉が遅いから」
「遅くても、伝わる言葉はあるよ」
「でも、相手を待たせるのは申し訳ない」
「相手の話を最後まで聞くのが得意な人も、必要だと思わないかい?」
そう言われると、少しだけ気が楽になった。
午前中、母と一緒に薬草を乾燥棚へ運んだ。香りの強い葉と、湿気に弱い花を分ける。母は治癒魔法の基礎を教えてくれた人でもある。
「学院では、治すことを急ぎすぎないでね」
「どうして?」
「傷の様子を見ないまま魔法を使うと、かえって悪くすることがあるから。何が必要か、まず確かめるの」
私は頷いた。薬草でも同じだ。名前が似ていても、使い方を間違えれば毒になるものがある。
そのとき、庭の外から小さな泣き声が聞こえた。門のところで、近所の少年が膝を擦りむいて座っている。
「転んじゃった……」
私は水を持って駆け寄った。
「少し、しみるかもしれない。洗ってもいい?」
少年は鼻をすすりながら頷いた。私は泥を落とし、傷の深さを確かめる。大きな傷ではない。清潔な布で押さえ、母から教わった手当てをする。
「もう大丈夫?」
「うん。ありがとう、ノエルお姉ちゃん」
少年が笑うと、私の胸も温かくなった。
人前でうまく話せなくても、役に立てることはある。
昼食後、私は学院の案内書を開いた。剣術、魔法理論、歴史、礼法。知らないことばかりだ。特に魔法理論の頁には、聞いたことのない専門用語が並んでいる。
「難しそう……」
そう呟きながらも、指が頁をめくるのを止められなかった。
学院には、魔法が得意な人も、剣が得意な人もいる。私にはできないことを、当たり前のようにできる人たちだ。
その人たちと一緒に学ぶことが、怖くて、少し楽しみだった。
昼下がり、私は弟妹たちが使う小さな薬箱の整理を手伝った。瓶には乾燥した葉と根が詰められ、棚には母が書いた注意書きが貼られている。
「ノエル、この葉は何に使うの?」
年下の従妹が、似た形の葉を二枚持ってきた。片方は傷の手当てに使う薬草、もう片方は肌を荒らすことがある種類だ。
「こっちは使っていいけれど、そっちは触る前に大人に聞いて」
「そっくりなのに?」
「うん。葉脈の向きが少し違うの」
従妹はじっと見比べ、やがて目を輝かせた。
「本当だ! ノエルお姉さま、すごい」
「……すごくはないよ。何度も間違えそうになったから覚えただけ」
言ってから、私は昔の失敗を思い出した。初めて一人で薬草を摘んだ日、似た葉を混ぜてしまい、父に全部やり直すよう言われた。泣きながら選り分けた私に、父は『間違いに気づける人は、次に誰かを守れる』と話してくれた。
その日の夕方、従妹が転んで膝を擦りむいた。私は水で傷を洗い、清潔な布を当てた。泣いていた子が落ち着くまで、薬草の話はしなかった。ただ手を握っていた。
「もう痛くない?」
「ちょっとだけ。でも、お姉さまがいるから平気」
その言葉が胸に残った。学院には、私よりずっと魔法の得意な人がいるだろう。けれど、誰かの隣で手を握ることまで、比べる必要はないのかもしれない。
夕方、母が小さな革の手帳を渡してくれた。
「新しいノート?」
「何か気づいたことを書き留めなさい。薬草のことでも、友達のことでも」
「友達のことも?」
「ええ。誰かが好きなものや、困っていたこと。忘れたくないことが増えるといいわね」
私は手帳の表紙を撫でた。
「……友達、できるかな」
「きっと。あなたが話しかけるのを待っている子もいるかもしれないわ」
自分から声をかける。考えただけで喉がきゅっとなる。
「まずは、挨拶から」
「それで十分よ」
夜、荷物をまとめ終えた私は、もう一度薬草園へ出た。月明かりの下で、昼間の花は静かに閉じている。
庭の片隅には、冬に弱った株があった。春になっても芽が出ず、もう駄目かと思っていた。けれど今日、小さな緑色の点が土を押し上げていた。
「……よかった」
私はしゃがみ込み、そっと土を整えた。
急がなくてもいい。すぐに大きくならなくても、芽は芽だ。
学院での私も、そうでありたい。
誰かが困っているときに、小さくても役に立てるように。自分の考えを、少しずつ言葉にできるように。
夜、父が薬草園の鍵を私の部屋へ持ってきた。
「留守の間は私が世話をする。水やりの順番も、君の書いた通りにね」
「日陰の苗は、朝に少しだけ」
「わかっているよ」
「風が強い日は、棚の端を……」
「それも書いてある」
父が笑ったので、私は頬を熱くした。心配で何度も同じことを言っているのは自分でもわかる。
「植物を置いていくのが、こんなに寂しいなんて」
「世話をしたものには愛着が湧く。人も同じだろう」
「……学院で、誰かに話しかけられるかな」
「話しかけてもらうのを待つだけでなく、君から挨拶してみたらどうだい」
私は少し考えた。知らない人の前では声が小さくなる。授業で質問したいことがあっても、間違っていたら恥ずかしいと思ってしまう。
「もし、返事がなかったら?」
「その人も緊張しているのかもしれない。次の人に挨拶すればいい」
父の答えはあまりに簡単で、私は小さく笑った。
「……じゃあ、一日目に一人」
「二日目は?」
「二人、は難しいかも」
「一人で十分だよ」
私は窓の外を見た。薬草園は夜の闇に沈んでいるけれど、明日の朝も芽はそこにある。私がいなくても育つものがあり、私が行かなければ出会えない人がいる。どちらも少し寂しく、少し嬉しかった。
私は新しい手帳の最初の頁に書いた。
『目標。知らない人に、自分から挨拶する』
文字は小さかったけれど、消さずに残した。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
目立つことは得意ではなくても、小さな変化に気づき、誰かのために行動できるノエル。
彼女の静かな優しさも、この物語の大切な一つです。
次回は、商人としての感覚と好奇心を持ち合わせたフィオナのお話です。




