プロローグ5 ミレイユ 流行よりも大切なもの
伯爵家の三女・ミレイユのお話です。
美しい服や流行の品々が大好きな彼女。
けれど、その明るい笑顔の奥には、友人を大切にする強い想いがあります。
――ミレイユ・ラングフォード――
春の新作は、薄い青と柔らかな金色が流行するらしい。
ラングフォード家の仕立て室には、染め上がったばかりの布が何反も並んでいた。窓から差し込む陽光が織り目に触れるたび、色合いが少しずつ変わる。
「こちらが王都で人気の色です、お嬢様」
職人が布を広げた。私は手を伸ばし、端の縫い目を確かめる。
「素敵。でも、この部分、少しだけ引きつれているわ」
「よくお気づきで」
「お父さまに、見た目より先に縫い目を見ろと言われているもの」
職人は嬉しそうに笑った。私はその表情が好きだった。布はただの飾りではない。染める人、織る人、裁つ人、縫う人の時間が重なって、一着になる。
「学院の制服には、あまり手を加えられませんね」と侍女が言った。
「そうね。でも、同じ制服だからこそ、着る人の表情が見えるのかもしれないわ」
自分で言って、少し気に入った。
午後、父の執務室へ寄ると、帳簿と注文書が机いっぱいに広がっていた。
「入学前に商売の勉強か?」
「お父さまが忙しそうだから、何か手伝えるかと思って」
「それなら、この二枚を見比べてごらん」
一方はラングフォード家の国内取引、もう一方はウェストフィールド商会からの仕入れ記録だった。私は数字を追い、首を傾げる。
「同じ染料なのに、納期が違うわ」
「輸送経路が違うからだ。価格だけでは商いはできない」
「信用も必要ね」
「その通り」
ウェストフィールド家とは以前から取引があり、娘のフィオナとも何度か顔を合わせている。彼女は話す速度も考える速度も速く、気づけばこちらまで笑ってしまう人だ。
「フィオナも同じ学院だったわね」
「そうだ。商売の話だけでなく、普通の友達になれるといいな」
父の言葉に、私は少しだけ驚いた。商家の娘たちは、しばしば家の利益を背負って会う。仲良くなったと思った相手に、翌日には条件の交渉を持ちかけられることもある。
「お父さまは、私が友達を作ることを応援してくださるの?」
「当たり前だ。家のためだけに学院へ行くわけではないだろう」
私は頷いた。そう言ってもらえるのが嬉しかった。
けれど、心配な友達が一人いる。
セレスティーヌ・ベルクハルト。王子妃候補に関わる集まりで知り合った彼女は、いつも丁寧で、誰にでも優しい。なのに、フェリクス殿下の名が出ると、ほんの少しだけ肩が硬くなる。
あの集まりの帰り、彼女が落とした手袋を拾ったことがあった。
『ありがとう、ラングフォード様』
『ミレイユでいいわよ』
『……まだ、そのようには』
彼女は困ったように笑った。無理に呼ばせることはできなかったけれど、いつか自然に名前で呼んでくれたらいいと思っている。
その前に、私は母のいる帳場へ顔を出した。机の上には仕立て代の記録と、職人たちの名前が書かれた帳簿が積まれている。母は眼鏡を外し、私を見て微笑んだ。
「新しいリボンを選んだの?」
「ええ。でも、今日は布のことで相談があるの」
私は朝見た縫い目の引きつれについて話した。母はすぐに職人を叱ることはせず、製作日と担当者を確かめた。
「この日は急ぎの注文が重なっているわ。誰かが怠けたとは限らないのよ」
「……そうね。私は仕上がりだけ見ていた」
「あなたの目はよく利く。でも、目に見えるものだけが全部ではないわ」
母は帳簿の端に小さく印を付けた。幼いころ、私は華やかな舞踏会の衣装に憧れていた。けれどある冬、注文が集中した日に仕立て室で働く人たちの指が赤く荒れているのを見て、初めてドレスが誰かの時間からできているのだと知った。
「学院でも、見えていることだけで決めつけないようにしたいわ」
「誰か気になる人がいるの?」
「……ええ。いつも完璧に見えるのに、時々とても寂しそうな人」
母はそれ以上聞かず、温かな茶を注いでくれた。
「その人に必要なのは、立派な助言より、一緒にお茶を飲む相手かもしれないわね」
私はカップを両手で包んだ。セレスティーヌに、何を言ってあげられるだろう。救うなんて大げさなことはできない。でも、隣の席を空けておくことならできる。
私は便箋を取り出した。
『セレスティーヌ様。学院では食堂のおすすめを一緒に探しましょう。礼儀作法の授業が終わったら、甘いものを食べる時間くらい必要だと思うの』
少し砕けすぎただろうか。考えた末、そのまま封をした。
数日後、返事が届いた。
『実は、学院の食堂で何を頼めばよいか少し不安です』
私は思わず声を上げて笑った。あれほど何でも完璧にこなす人が、食堂の注文を心配しているなんて。
けれど笑い終えると、胸が少し痛んだ。彼女は、何を選ぶにも間違えないよう気を張っているのだ。
『まずは一緒に食べましょう。おすすめはその場で決めればいいのよ』
返事を書いて、私は机の上の布見本を片づけた。
入学まであと数日。仕立て室では、最後の制服の裾上げが終わろうとしていた。
「お嬢様、こちらのリボンはどうなさいます?」
侍女が、華やかな飾りのついたリボンを差し出す。
「それは置いていくわ」
「お気に入りだったのでは?」
「ええ。でも、学院では新しい自分になってみたいの」
豪華な飾りをつけなくても、自分の言葉で誰かを笑顔にできたらいい。
夜、私は鏡の前で制服を合わせた。濃紺の布は思った以上に落ち着いていて、いつものドレスより少し大人びて見える。
「ミレイユ、学院で何をするつもりなの?」
鏡の中の自分に尋ねる。
「勉強もする。新しい布も探す。でも、一番は……」
セレスティーヌが、誰かと気兼ねなく笑っている姿を想像した。
「友達と、ちゃんと友達になること」
荷造りを終えたころ、父が仕立て室の扉を覗いた。
「ミレイユ、王都の学院で商売を始めるつもりではないだろうな」
「まさか。まずは授業を受けるわ」
「『まずは』か」
父は笑って、細長い木箱を差し出した。中には、色の違う糸を少しずつ巻いた小さな糸巻きが並んでいる。
「これは?」
「各地の職人が作った糸だ。見た目は似ていても、触れば違いがわかる。おまえの目が曇りそうになったら思い出せ」
私は一本ずつ指先で確かめた。滑らかなもの、少しざらつくもの、光を受けて深い色になるもの。どれも同じように大切に箱へ収まっている。
「人も同じ、って言いたいの?」
「それを決めるのはおまえだ」
父はそう言って肩をすくめた。私は箱の蓋を閉じ、荷物の一番上へ入れた。
学院では、誰かの肩書きより先に、その人の好きなものを聞いてみよう。好きなお茶、得意な科目、苦手な朝。そんな話から始まる友情があってもいい。
「セレスティーヌ、今度はあなたの好きな色を教えてね」
まだ届かない言葉を、小さく呟いた。次に会うときは、礼儀正しい挨拶だけで終わらせたくなかった。
流行は季節が変われば移ろう。
けれど、人が誰かのために選んだ言葉は、きっと長く残る。私はそう信じて、制服を丁寧に畳んだ。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
華やかなものに心を弾ませながらも、人の気持ちを見過ごさないミレイユ。
彼女の明るさが、学院で出会う友人たちにどんな変化をもたらすのか、楽しみにしていただければ嬉しいです。
次回は、薬草と魔法の研究が好きなノエルのお話です。




