第79話 褒め言葉のあとに残る疲れ
演習が終わっても、身体の震えはすぐには止まらなかった。
私は木剣を返却しながら、自分の手を見つめた。怪我はない。けれど、誰かが倒れるかもしれないと感じた瞬間の怖さが、まだ指先に残っている。
「エレナ、顔色が悪い」とルシアン。
「平気。走ったから、ちょっと疲れただけ」
「その言い方は信用しない」
彼は笑わなかった。私は観念して、石段に腰を下ろす。
「……荷車が傾いたとき、私がすぐ直せると思ったの。なのに、直せなかった」
「君一人では難しかったね」
「うん。悔しかった。でも、フィオナが規則を読み直してくれた。皆がいたから、間に合った」
ルシアンは隣に座り、しばらく黙っていた。
「僕も怖かったよ。君が無理をするんじゃないかと思って」
「今日はしなかったでしょ?」
「うん。ちゃんと僕らを信じてくれた」
その言葉が、妙に嬉しかった。
医務室では、ノエルがセレスティーヌとアレクシスの様子を確かめていた。アレクシスの腕には冷たい布が巻かれ、セレスティーヌは温かい飲み物を受け取っている。
「魔力を使ったあとに無理をすると、次の授業まで響きます」とノエル。
「肝に銘じるよ」とアレクシスが肩をすくめる。
セレスティーヌは私たちを見て、柔らかく微笑んだ。
「今日は、初めて『私が守れた』と思えました」
「守ったよ」と私は即答した。
「でも、皆さんがいなければ盾を出す場所も分かりませんでした」
「それはお互いさま」とミレイユ。「私だって、あなたの盾がなかったら布を結ぶ時間を作れなかった」
フィオナが頷く。「商売も同じよ。一人だけ優秀でも、荷物は届かないもの」
セレスティーヌの目が少し潤んだ。彼女はすぐに俯いたけれど、私は何も言わず隣に座った。
皆が医務室を出る支度を始めたころ、アレクシスは椅子の背に掛けた上着を取ろうとして、腕の痛みに眉をしかめた。
「まだ無理をなさってはいけません」
セレスティーヌがそっと上着を取り、彼の手の届くところへ置いた。
「ありがとう。君だって疲れてるだろう」
「ええ。でも、今日は自分の判断で盾を出せました。怖かったけれど……嬉しいんです」
そう言って笑った彼女を見て、アレクシスは返事を一拍遅らせた。
「……それなら、よかった」
自分の胸に生まれた気持ちは、もう単なる心配だけではない。彼は薄々気づいていた。
けれどセレスティーヌには婚約者がいる。何より、彼女がようやく自分の足で歩き始めたばかりなのだ。
だからアレクシスは、その気持ちを告げる代わりに、いつもどおり笑った。
「次の演習でも、頼りにしてる」
「はい。私も、頼りにしています」
その言葉だけで、今は十分だった。
私たちの班は、途中で荷車を失ったため時間点が低い。それでも、人員の安全と物資の状態、状況判断で高い評価を得た。
「完璧な成功ではない」と先生は言った。「だが、失敗しかけたときの選択には価値がある」
帰り道、アレクシスが「次は荷車の車輪も鍛えたい」と言い出し、皆で笑った。
私はその輪の少し後ろを歩いた。故郷のリリアにも、この話を手紙に書こう。『お姉ちゃんは一人で全部解決しなかったよ』と書いたら、きっと驚くだろう。
ルシアンが私の横に並んだ。
「手紙、何を書くか決まった?」
「どうして分かったの?」
「君、嬉しいことがあると、指で文字を書くみたいに動かすから」
私は自分の指先を見て、慌てて握りしめた。
「そんな癖、知らなかった」
「昔からだよ」
演習後の軽い反省稽古で、ガルド先生は私とルシアンに短い連携を再現させた。
「全力はいらん。判断だけ見せろ」
アレクシスが盾を持ち、私の前に立つ。ルシアンの風が床の布片を二つ動かした。私は一枚目を木剣の平で払い、二枚目には手を出さず、アレクシスへ合図する。
「左、お願い!」
「任せろ!」
盾が布片を止める。たったそれだけの動きで、私の呼吸は少し乱れた。疲れが残っている。
「今日はここまでだ」とガルド先生。
私はもっと動けると言いかけ、ルシアンの顔を見て口を閉じた。彼は何も言わず、私の木剣を受け取るために手を差し出していた。
「……ありがとう」
「明日、元気なら続きをやろう」
戦う力を持っていることと、いつでも戦わなければならないことは違う。その当たり前のことが、今日は少しだけわかった。
彼の声が優しくて、私は何も言えなくなった。三年の空白があっても、覚えていてくれることがある。その事実が、今日の褒め言葉よりずっと胸に残った。




