第80話 学院の鐘と王都の影
共同防衛演習から三日後、学院の廊下から点検用の衝立がいくつか撤去された。
久しぶりに中庭への近道が開き、私は思わず足取りを速めた。
「走らない」とルシアン。
「まだ走ってない!」
「今、走ろうとしたでしょう」
「……少しだけ」
彼は声を立てて笑った。朝日を受けた窓辺には、薄い金色の光が落ちている。私はこんな何でもない朝が好きだ。
学院の鐘はいつもと同じ時刻に鳴り、学生たちは同じ廊下を行き交う。けれど私には、少しだけ景色が違って見えた。
演習の前なら、私は剣の試験結果ばかり気にしていたはずだ。今は、掲示板の前で足を止めた仲間が何を話すのか、そのほうが楽しみだった。
セレスティーヌは《聖晶》の記録をノエルと見比べ、アレクシスは腕の疲労が抜けたかどうかを確かめている。
ミレイユとフィオナは、布の持ち手を改良できないかと真剣に話し合っていた。
「次はもう少し幅広にしましょう。肩に食い込まないように」
「それなら、商会にある余り布を使えるわ」
失敗したところを責めるより、次にどうするかを考えている。その姿を見ていると、私まで次の一歩を踏み出したくなる。
食堂では、五人の席に新しい話題が増えていた。演習の記録が掲示され、私たちの班の工夫が授業の参考例として紹介されたのだ。
「荷車を使わない判断、褒められていたわね」とミレイユ。
「最初に規則を読んだのはルシアンだけどね」とフィオナ。
「読んでも、使い方に気づかなかったのは僕だよ」と彼。
ノエルが静かに言った。「誰かが気づいて、誰かが動いた。それで十分だと思う」
セレスティーヌは茶杯を置いた。「私も、そう思います」
その笑顔を見て、私は安心した。彼女は以前より、自分の意見を言うときに顔を上げるようになった。
けれど、穏やかな時間は昼過ぎに少しだけ揺れた。
昼休みが終わるころ、廊下には普段と違う靴音が響いた。硬い革靴が石床を打つ音と、誰かが控えめに道を譲る声。
窓際へ寄った学生の肩越しに、濃い色の外套をまとった使者の姿が見えた。
王宮の紋章は、遠目にも分かるほど鮮やかだった。
学院の正門前に、王宮の紋章を付けた馬車が止まっていたのだ。制服姿の学生たちが遠巻きに見守り、教師が足早に校舎へ入っていく。
「誰か来たのかな」と私。
「王宮からの使いなら、学院長への用件かもしれない」とルシアン。
私はそれ以上尋ねなかった。王族のことは、軽々しく噂するものではない。
ところが放課後、セレスティーヌが一通の封書を持って現れた。封蝋には王家の紋章が押されている。
封書を見たとき、私は胸の奥がひやりとした。セレスティーヌは礼儀正しく立っていたけれど、手紙の端がわずかに曲がるほど強く握っている。
以前、彼女が王子の名前を聞いただけで目を伏せていたことを思い出す。今は違う。顔を上げている。でも、怖くなくなったわけではないのだ。
「座ろうか」とミレイユが言った。「立ったままだと、みんな落ち着かないもの」
私たちは廊下の端の小さな談話室へ移った。フィオナが扉を閉め、ノエルが水を用意する。誰も封書を取り上げようとはしない。
セレスティーヌが自分の言葉で話し始めるまで、待っていた。
「フェリクス殿下からです」
彼女の声は落ち着いていた。けれど、封書を持つ指は少し強張っている。
「何て?」と私は尋ねた。
「招待というより、命令に近い書き方ですね」とフィオナが慎重に言った。
セレスティーヌは首を横に振った。
「殿下の立場を考えれば、そういう表現になるのかもしれません。ただ、私にはまだ詳しい趣旨が知らされていません」
「それなら、返事を急ぐ理由もないわ」とミレイユ。
「学院の規則と日程を確認しましょう」とノエルも続けた。
私は何か強い言葉を言いたくなった。嫌なら断ればいい。そう言うのは簡単だ。でも、王族との婚約には、私の知らない責任がいくつもある。
セレスティーヌの立場を無視して怒るのは、助けることとは違う。
「私にできることがあれば、言ってね」と私は伝えた。
セレスティーヌは驚いたように瞬き、少しだけ笑った。
「ありがとうございます。まずは、先生に相談してみます」
ミレイユが眉を寄せた。「学院の予定と重なったら?」
「正式な案内が届くまで、返事は控えます。先生にも相談するつもりです」
以前なら、セレスティーヌは迷わず『従います』と言ったかもしれない。私はその変化を嬉しく思った。
「一人で悩まないでね」と言うと、彼女は頷いた。
「はい。皆さんが教えてくださったことですから」
その日の午後、教室では王宮の馬車の噂がささやかれていた。誰が来たのか、何の用件なのか。確かめようのない話ほど、廊下の端から端へ広がるのは早い。
私はその輪に入らなかった。知っていることと、想像していることを混ぜれば、誰かを傷つけてしまうかもしれない。
それでも心は落ち着かない。北から届いた不穏な知らせ。学院の魔力灯の点検。セレスティーヌへの呼び出し。
それぞれ別のことかもしれないのに、頭の中で勝手に一本の線になろうとする。
そんな自分に気づいて、私は廊下の窓を開けた。冷たい空気を吸い込むと、ようやく考えが少し整った。
夕方、私は図書室へ向かう途中でガルド先生とリディア先生の姿を見かけた。二人は学院長室の前で、低い声で話している。
「北方の巡回記録だけでは判断できん」とガルド先生。
「ええ。学院の設備の件も、今は原因を分けて考えるべきです」とリディア先生。
私は足を止めずに通り過ぎた。聞こえた言葉をつなげて、勝手に大きな事件にしてはいけない。
図書室の窓際では、ルシアンが本を閉じて待っていた。
「遅かったね」
「ちょっと考えごとしてた」
「北のこと?」
「それも。でも、セレスティーヌのことも」
私は椅子に座った。彼はすぐには答えず、私が話し始めるのを待ってくれる。
「私、学院に来る前は、普通に授業を受けて、剣を振って、静かに暮らせたらそれでいいと思ってた」
「今は?」
「皆が笑ってるところを、もっと見ていたい」
言ってから、少し恥ずかしくなった。
ルシアンは窓の外を見た。夕日が彼の横顔を柔らかく照らしている。
「それは、いい願いだと思う」
「ルシアンは?」
「君が学院に来たばかりのころ、目立ちたくないって何度も言ってたね」
「今でも言ってるよ。できれば、平穏がいい」
「うん。でも、今の君は平穏を、自分一人の静けさとは思っていない気がする」
私は少し考えた。故郷の家族が無事で、友達が安心して笑えて、誰かが無理をしていたら声をかけられる。そんな時間を守りたい。
「……そうかも。平穏って、何も起きないことだけじゃないんだね」
「何か起きても、一緒に考えられることも大事だと思う」
ルシアンは窓の外を眺めた。暮れかけた空の色が、彼の青灰色の瞳に映っている。
私たちの前に何が待っているのか、まだ分からない。王宮の用件も、北の異変も、勝手に決めつけることはできない。だからこそ、目の前にいる人の声を聞きたい。
「僕も、同じだよ」
彼は少し間を置き、こちらを見た。「できれば、君の隣で」
胸の奥が、剣を振ったあととは違う熱さで満たされた。
「……うん」
私はそれだけ答えた。何を言えばいいのか、まだ分からなかったから。
図書室を出るとき、ルシアンが扉を押さえてくれた。
「明日、演習の報告書を一緒に見直さない?」
「いいよ。私、地面のことをもう少し勉強したい」
「剣で切れないものも、あるからね」
「それ、ずっと覚えてるから!」
彼は笑った。私も笑った。
ほんの短いやり取りなのに、先ほどまで胸にあった重さが少し和らぐ。これからも、私たちはこうして言葉を交わせるだろうか。交わしていきたい、と初めて強く思った。
夜、学院の鐘が鳴った。正門の外では、王宮の馬車が王都の灯りの中へ消えていく。
私たちが守りたい日常は、今のところここにある。けれど、その外側では、知らない思惑が少しずつ動き始めているらしい。
廊下の衝立が外された日の放課後、ガルド先生は演習の締めくくりとして、三人に短い模擬戦を命じた。
「勝敗より、前回の反省が身についているかを見る」
私は木剣を構え、アレクシスが盾を前へ出す。ルシアンは後方で風の術式を準備した。相手役の上級生二人が左右へ散る。
最初の剣先を受け流し、私は右へ踏み込んだ。追えば一本取れる。そう思った瞬間、背後でルシアンが短く声を上げた。
「荷物役、左!」
私は足を止めて向きを変える。アレクシスが盾を低くし、《金剛》を一瞬だけまとわせて打撃を受けた。衝撃に合わせて彼の膝が沈む。ルシアンの風が相手の足元の砂を払う。
「エレナ、今!」
私は盾の陰から抜け、木剣を相手の腕の手前で止めた。勝敗を告げる笛が鳴る。
「以前なら、最初の相手を追っただろう」とガルド先生。
「……はい」
「今は戻れた。それを忘れるな」
ルシアンがこちらを見て笑った。私も笑い返す。誰かと息を合わせて戦うことが、少しずつ自分のものになっている。だからこそ、次に剣を抜くときも、守るべきものを見失わずにいたい。
私は窓を閉め、机の上の便箋を広げた。
『リリアへ。今日はね、皆で力を合わせて、とても難しいことをやり遂げたんだよ』
書き始めると、不思議と手が止まらなかった。
明日も平穏でありますように。
そして、もしそうでなくても、大切な人たちと一緒に考えられますように。




