第78話 七人で渡る濡れた道
荷車は傾いたまま、動かない。
地面に落ちた雫が、石畳の割れ目へ細い筋を作って流れている。足元の土は踏むたびに沈み、少し離れた場所では、ほかの班の掛け声が風に乗って聞こえた。
時間だけが過ぎていくようで焦る。でも、私たちは今、時間を競うためにここへ来たわけではない。
ガルド先生は少し離れた位置に立ち、私たちの様子を見ている。安全停止を選ぶ余地は残されていた。そのうえで続けるなら、誰か一人の根性ではなく、七人が納得できる方法が必要だ。
雨上がりの風が冷たく、セレスティーヌの額には細かな汗が浮かんでいた。アレクシスの腕も限界に近い。
「どうする?」と彼が尋ねる。
私は荷車の下を見た。剣で木枠を支えることはできる。でも、私が支えたところで地面そのものは強くならない。
「待って。そもそも、運ぶべきものって何?」
フィオナが突然そう言った。
「荷車……じゃないの?」と私は答える。
「違うわ。救護所に必要な薬箱よ。車輪を救護所へ届けたって、誰も助からないでしょう」
思わず口を開けたまま彼女を見た。
商会の仕事で荷の輸送を見慣れているフィオナには、最初から目的と手段が別々に見えていたのだろう。私には荷車を動かすことしか見えていなかった。
「一度、荷物を下ろそう」とフィオナが言った。「荷車ごと運ぶ必要はないわ。規則には『物資を届ける』とあるだけ」
全員が彼女を見る。
「確かに!」とミレイユ。「二つに分ければ、一つずつ運べる」
ルシアンが規則書を確かめた。「うん。荷車の使用は推奨で、必須じゃない」
私は思わず笑った。「それ、最初に気づいてたら苦労しなかったね」
「今気づいたからいいのよ」とフィオナ。
ノエルがセレスティーヌの手首に触れる。「少し休んで。魔力の流れが乱れてる」
「でも、皆さんが……」
「皆がいるから、休んでいいの」とミレイユが言った。
その言葉に、セレスティーヌは小さく頷いた。
アレクシスはゆっくり《金剛》を解いた。腕を振って痺れを確かめる。
「俺も、少し休ませてくれ」
「もちろん」と私。「前衛は交代できるよ」
「先に危険な側の箱を外そう」とノエルが言う。「重心が片方へ寄ってるから、順番を間違えるともっと傾く」
「私が布を渡すわ。結び目は二重にする?」とミレイユ。
「二重。ただし、解くときに時間がかからない形がいい」とフィオナ。
ルシアンが手のひらに弱い風を集める。強い風なら泥を吹き飛ばせるかもしれないが、同時に箱を揺らしてしまう。
「乾かすのは足を置く場所だけにするよ。荷車の下は触らない」
「それで十分」と私は答えた。
アレクシスがゆっくり息を吐き、腕の力を緩める。
「俺が支える間に、軽い方から頼む」
「痛かったらすぐ言って」とセレスティーヌ。
「君のほうこそ、無理はするなよ」
二人は顔を見合わせ、少し気まずそうに笑った。私はその様子にほっとする。誰も、自分の負担を隠そうとしていない。
荷物を下ろす間、ルシアンが弱い風でぬかるみの表面を乾かし、私は木剣で模擬標的の進路を塞いだ。フィオナとミレイユは布で薬箱を包み、二人で運べる持ち手を作る。
「商会の荷造りが役に立ったでしょう」とフィオナ。
「この結び方はうちの職人に教わったの」とミレイユ。
「二人ともすごい」と私が言うと、二人は顔を見合わせて笑った。
再出発の前に、私はセレスティーヌへ手を差し出した。
「歩ける?」
「はい。今度は、盾を出す前に知らせます。無理をしないために」
「うん」
箱を二つに分けると、持ち運ぶ速さは落ちた。片方を運ぶ間、もう片方は必ず誰かが守らなければならない。そこで私たちは順番を決めた。
「前方確認は私とルシアン。荷物の両側をミレイユとフィオナ。ノエルとセレスティーヌは無理をせず後ろから、アレクシスは周囲の警戒をお願い」
「俺が後ろでいいのか?」
「腕を休めながらでも、後ろの危険に気づけるのはアレクシスだから」
彼は照れくさそうに鼻をこすった。
「分かった。後ろは任せろ」
私は皆の顔を見てから歩き始めた。合図を交わすたび、足並みが自然にそろっていく。
石畳の残りの道には、まだ模擬標的が二つあった。アレクシスは前へ出ず、ノエルと一緒に後方を守る。私は一つ目を木剣で弾き、ルシアンが風で二つ目の狙いを逸らす。
進路の右側に、雨で濡れた平たい石があった。私はそこを飛び越えようとして、思いとどまった。自分一人なら跳べる。でも、後ろには箱を抱えた仲間がいる。
「右側、滑るよ。左へ回ろう!」
声を返すと、フィオナがすぐに頷いた。
「了解。箱を少し持ち直すね」
ほんの数歩の遠回り。けれど、その数歩で皆の呼吸が乱れずに済む。
「右、足元!」
フィオナの声に従い、私は滑りやすい石を避けた。以前なら、声を聞くより先に跳んでいただろう。
最後の曲がり角で、低い模擬弾が薬箱を狙った。
「今、お願いできますか」とセレスティーヌが言う。
「お願い!」
銀白の盾が短く輝く。模擬弾は箱の脇を通り過ぎ、草地に落ちた。
盾が消えるより早く、私たちは目的地の白線を越えた。
最後の白線は、泥でところどころ見えにくくなっていた。私は一歩先に踏み込みかけ、荷箱を運ぶ二人の速度に合わせて足を緩めた。
「あと三歩!」とミレイユ。
「二歩!」とフィオナ。
「最後、みんな一緒に!」
ノエルの声に、私たちはほとんど同時に白線を越えた。
鐘が鳴る。演習終了の合図だった。
「やった……!」
声を上げたのは私だけではなかった。皆が同時に息を吐き、泥だらけの靴を見て笑い出した。
ガルド先生が歩み寄る。「荷車を捨てた判断はよかった。物を守るために人を傷つけては本末転倒だからな」
「評価で一つだけ言っておく」とガルド先生が続けた。「《金剛》も《聖晶》も、便利だからといって限界を無視して使えば危険だ。今日よかったのは、二人を休ませる判断ができたことだ」
セレスティーヌは深く頷いた。アレクシスも、腕をさすりながら苦笑する。
「次はもっと上手く支えられるようになりたいな」
「その前に、地面を見ようね」とノエル。
「手厳しい!」
皆が笑う。私は、試験で褒められたときより、その笑い声のほうが嬉しかった。
荷車の進路を確保している間にも、演習用の標的が一つだけ近づいてきた。安全設定の木製装置とはいえ、今の足場で受け止め損ねれば、荷車を押す仲間の邪魔になる。
「私が行く」
「待って、エレナ」とルシアン。
彼は地面を指した。標的までの最短距離には、雨水の溜まった柔らかい土がある。
「右の石畳から回って。僕が速度を落とす」
「わかった」
ルシアンの風が標的の横腹を押し、木製の腕が空を切った。私は石畳を蹴り、剣の平を装置の支柱へ当てる。壊さないように力を抜き、車輪の向きを外側へずらした。
「アレクシス!」
彼が盾を低く構え、標的の進路を塞ぐ。《金剛》を使ったのは接触する一瞬だけ。それでも反動は腕に残るらしく、彼は肩を回して息を吐いた。
「よし、通れる!」
フィオナの声が届く。私たちは標的を追わず、荷車の側へ戻った。剣を振っていた時間はほんのわずかだ。けれど今度は、仲間の足音を最後まで聞いていられた。
私は七人の顔を見回した。誰か一人が強かったからじゃない。全員が、それぞれの持っているものを差し出した。
胸がいっぱいになって、私は少しだけ空を見上げた。雲の切れ間から、淡い日差しが差していた。




