第77話 崩れた足場と止まる車輪
演習当日の朝、雨はやんでいた。
けれど雲は厚く、地面は思った以上に柔らかい。私は靴底にまとわりつく泥を見て、昨日の計画を思い返した。
「全班、準備!」
ガルド先生の声が響く。私たちは模擬薬箱を積んだ小さな荷車を押し、石畳の経路へ向かった。
今回の演習は、単に敵役を倒す試験ではない。模擬薬箱を所定の救護地点まで届け、途中で発生する障害に対応する。
搬送物資の破損を防ぎ、班員の安全を確保することも評価の対象だと、ガルド先生は何度も念を押していた。
「危険と判断したら停止を申し出ろ。停止は減点ではない。根拠のない強行こそ問題だ」
出発前のその言葉を、私は頭の片隅に置いた。
ルシアンは荷車の車輪を軽く回して異音を確かめ、フィオナは経路図を濡らさないよう革の筒に収めた。
ミレイユは包帯代わりの布を肩から提げ、ノエルはセレスティーヌの魔力の具合を尋ねている。
「昨日より落ち着いています。でも、盾は一度に長く維持しません」
「うん。必要なときだけね」
ノエルが頷くと、セレスティーヌもほっとしたように微笑んだ。
「エレナ、合図を忘れないでよ」
ルシアンに小声で言われ、私は肩をすくめた。
「分かってる。先に走ったりしない」
「約束だからね」
私は木剣の柄に触れ、短く頷いた。
序盤は順調だった。フィオナが分岐を確認し、ミレイユが布の端を結び直す。アレクシスは前方の模擬敵を木盾で受け、私は後ろへ抜ける標的を木剣で止めた。
「いい調子!」
私が言った直後、嫌な音がした。
それは、ほんの小さな違和感から始まった。荷車を押す手に、石を踏んだときとは違う柔らかな抵抗が伝わる。
フィオナが「待って」と言いかけたとき、車輪の下で水を含んだ土がずるりと動いた。
乾いた石の音ではなく、湿ったものが裂ける鈍い音だった。
荷車の上の木箱が一斉に傾く。箱の角がぶつかり、金具が高い音を立てた。
がくん、と荷車が傾く。石畳の継ぎ目に溜まった水が、下の土を削っていたらしい。片輪が沈み、薬箱が滑りかけた。
「止めて!」とフィオナ。
私は反射的に駆け寄ろうとした。しかし、足元でルシアンの声が響く。
「エレナ、後ろの標的!」
振り向けば、模擬弾を放つ木製装置がこちらを向いている。私が荷車へ行けば、後衛が空く。
歯を食いしばって木剣を構えた。
足はもう荷車へ向きかけていた。私が支えれば、たぶん持ち上がる。そう思った瞬間、昨日の回廊での会話が頭をよぎった。
私だけが間に合っても、後ろの人が危険にさらされたら意味がない。
「ルシアン、後衛は任せる! 私は標的を止める!」
「了解。荷車はアレクシス、地面の確認は僕がやる!」
短い返事が、驚くほど心強かった。
木製装置の発射口が動く。私は踏み込む角度を変え、荷車と後衛の間に立った。
「アレクシス、車輪を!」
「任せろ!」
彼は《金剛》で腕を強化し、荷車の縁を支えた。けれど地面がぬかるみ、足が少し滑る。
「力で持ち上げるな!」とルシアン。「土が崩れる!」
「押し上げるな、横へ倒れる!」
ルシアンが低い声で指示する。アレクシスの額にはすでに汗が浮かび、荷車を受け止めた肩がわずかに揺れていた。
「分かってる。だが手を離すと、箱が落ちる!」
「まず重量を減らそう。ノエル、箱の留め具を見て!」
私の前では次の標的が動き出している。木剣で打ち払えば終わり、とはいかない。標的を壊すほど強く打てば演習装置が飛び散り、近くの仲間を傷つけるかもしれない。
力を抑えて受け流す。私にとっては簡単な動きのはずなのに、皆の位置を確かめながらだと呼吸が浅くなる。
ノエルが叫んだ。「薬箱の片方を下ろせば軽くなる!」
「布を敷くわ!」とミレイユ。
皆が動き出した、その瞬間。模擬弾が想定より低い角度で飛び、薬箱の側面へ向かった。
「セレスティーヌ、今!」
私の声に、銀白の盾が現れた。薄い結晶が模擬弾を斜め上へ弾き、二つ目の箱を守る。
一、二、三。
ノエルの数える声が聞こえる。
四、五。
盾が消え、セレスティーヌが膝に手をついた。
「大丈夫?」
「はい……でも、すぐにはもう一度出せません」
「出さなくていい!」
私は前方の標的を止めながら答えた。
アレクシスが荷車を支え続ける。顔には汗が浮かび、《金剛》で固めた腕も震えていた。強くなった腕に衝撃が伝わらないわけではない。
「これ以上は危ない」とノエルが言った。
そのとき、荷車の後ろから小さな亀裂音がした。石畳の縁が崩れ、車輪がさらに沈む。
セレスティーヌの指が小さく震えていた。銀白の盾は見事に箱を守ったけれど、その代わりに彼女の頬から血の気が引いている。
ノエルがすぐにそばへ寄り、呼吸を合わせるように声をかけた。
「座らなくていい。でも、深く息をして。今は次の盾を考えないで」
「……はい」
アレクシスも、平気そうに笑おうとして失敗した。
「腕はまだ動くぞ」
「動くのと、無理なく支えられるのは別だよ」
私が言うと、彼は少し驚いた顔をしたあと、素直に頷いた。
「そうだな。今は意地を張る場面じゃない」
仲間の疲労が見える。見えているのに、演習を続けたいと願う自分もいる。点数が惜しいからではない。皆で考えた作戦を、最後までやり遂げたいからだ。
でも、その願いを誰かの痛みより優先してはいけない。
ガルド先生が手を上げた。「安全停止を宣言するか?」
私は唇を噛んだ。演習を続けたい。でも、仲間の疲労は本物だ。
「少し、確認させてください!」
先生は短く頷く。
先生はすぐには判断を下さなかった。私たちの考える時間を守るように、模擬装置を一時停止させ、崩れた場所に近づかないよう周囲の班にも知らせている。
「続行するなら、班員全員の状態を確認しろ。無理ならそこで終了だ」
私は一人ずつ顔を見た。
「セレスティーヌ、歩ける?」
「はい。ただ、今すぐ大きな盾は出せません」
「アレクシスは?」
「荷車から手を離せれば、少し休んで動ける」
「ミレイユ、フィオナ、ノエルは?」
「荷を移す布はあるわ」「経路の迂回は調べられる」「休憩を取れば魔力の状態も確認できる」
最後にルシアンを見る。
「君はどうしたい?」
答えを急がせない問いだった。
「……誰も無理をしない方法があるなら、続けたい」
「僕も同じだ」
それを聞いて、私はやっと自分の肩に力が入っていたことに気づいた。
荷車が傾く少し前、演習用の移動標的が曲がり角から現れた。雨上がりの地面を小さな車輪が跳ね、木製の腕が荷箱の方へ伸びる。
「右から来る!」
私は木剣を構え、荷車と標的の間へ出た。踏み込んだ足が泥を蹴る。剣の腹で腕を弾くと、標的は向きを変え、今度は後方へ回り込もうとした。
「追うな、エレナ!」
ルシアンの声に足を止める。代わりに彼が小さな風を地面に沿わせ、標的の前へ落ち葉を集めた。車輪がわずかに遅くなる。
「アレクシス、左を!」
「了解!」
アレクシスが盾を差し入れた。薄い《金剛》が盾面を覆い、標的の衝撃を受ける。彼の靴底が泥に沈むのを見て、私はすぐに肩を貸す位置へ回った。
「押し返さないで。地面が緩い!」とフィオナ。
私たちは標的を止めるだけにして、通り過ぎるのを待った。戦いとしては地味だった。それでも荷車のそばを離れなかったことに、私は小さな手応えを覚えた。
私たちは荷車を囲んだ。無理に持ち上げれば、誰かが怪我をする。魔法を強く使えば、土がさらに崩れる。
目の前にあるのは、剣では切れない問題だった。




