第75話 心配の形は同じじゃない
北の家を思うとき、エレナは兄ヴィクトルのことも思い出した。
婚約者のエリザベートは、兄の剣の腕前を褒めるだけでなく、領地の人々の暮らしを一緒に考えてくれる人だった。兄がその人を呼ぶときの、少し柔らかい「エリザベート」という声を思い出し、エレナは小さく笑う。
ルシアンと喧嘩をした、というほどのことではない。
ただ、夕方の訓練庭で、彼が私に向けた言葉が妙に胸に刺さった。
「エレナ、次の演習では前衛をアレクシスに任せてほしい」
「私の剣が邪魔ってこと?」
「そうじゃない。君が前へ出ると、後衛との距離が開きやすいから」
「でも、私なら間に合うよ」
「間に合うかどうかだけの話じゃない」
声は穏やかだった。だからこそ、私はむきになった。
「ルシアンまで、私を危ないものみたいに言うんだね」
彼の表情が止まった。
「そんなつもりはない」
「……ごめん。今のは言いすぎた」
私は剣袋の紐を握り直した。謝ったのに、目を合わせられない。
いつもなら、そこで木剣をもう一度振れば気持ちは切り替わる。けれど今は、訓練庭に残る靴跡を見ているだけで胸が重かった。
夕暮れの風は乾いた草の匂いを運び、練習を終えた学生たちの笑い声が石壁に反響している。私だけが、そこから一歩取り残されたような気がした。
ルシアンは怒鳴らなかった。私の腕を疑いもしなかった。それなのに、どうして私はあんな言葉を選んだのだろう。
答えは分かっている。私が怖がっていることを、彼に見抜かれた気がしたからだ。
故郷からの便りを読むたび、頭の中には白銀の森の木立が浮かぶ。リリアがその近くを駆け回っている姿まで、勝手に思い描いてしまう。剣が届く距離なら守れる。
そう思い込まなければ、遠くにいる妹を心配する気持ちを持て余してしまうのだ。
だから「前へ出るな」と聞こえた瞬間、私はルシアンの言葉を最後まで受け止められなかった。
その夜、寮の窓を開けると、庭の木々が冷たい風に揺れていた。故郷なら、リリアが勝手に私の部屋へ入ってきて、『お姉ちゃん、怒ってるの?』と遠慮なく聞いてくるだろう。
私が一番恐れているのは、戦うことではない。大切な人が危険な場所にいるのに、自分だけ安全なところで待つことだ。
翌朝、食堂でセレスティーヌが隣に座った。
「昨日、何かありましたか」
「顔に出てる?」
「少しだけ。私も、よく人の顔を見てしまうので」
「ねえ、セレスティーヌ。誰かが自分を守ろうとしてくれるのって、どう感じる?」
思い切って尋ねると、彼女は少し考えてから、皿の上のパンをそっと置いた。
「嬉しいです。……でも、時々、申し訳なくもなります」
「申し訳ない?」
「私のために、その方が傷つくかもしれないと思うと。自分の希望を言うことさえ、わがままに思えてしまうのです」
朝の食堂には焼きたてのパンと蜂蜜の匂いが満ちていた。隣の卓では学生が小試験の結果を話している。そんな普通の朝に、彼女の言葉だけが妙にはっきり聞こえた。
「でも、エレナさんは、私たちに守らせてくださいますか?」
「え?」
「あなたが危ないとき、私が《聖晶》を出しても、邪魔だと思いませんか」
「そんなこと、絶対にないよ!」
即答してから、私は口を閉じた。
セレスティーヌは責めるでもなく、柔らかく笑った。
「きっと、ルシアン様も同じ気持ちなのではないでしょうか」
私はぽつぽつと話した。彼女は最後まで聞き、茶杯を置いた。
「私なら、守っていただけるのは嬉しいです。でも、何も相談されずに守られると、少し寂しいかもしれません」
思わず顔を上げた。
「……そうか」
「ルシアン様がどうお考えかは分かりません。ただ、エレナさんが危険を引き受けるとき、周りの方にも心配する時間があるのだと思います」
その言葉は、静かに胸に落ちた。
昼の授業では、板書を写しながら何度も謝る言葉を考えた。「ごめんね」だけでは足りない気がする。でも、長々と言い訳をすれば、また自分の気持ちばかり押しつけてしまう。
ノエルに貸した筆記具を返してもらうとき、彼女が私の手元を見て言った。
「今日は文字が少し曲がってる」
「そんなに分かりやすい?」
「いつもはもっと勢いがあるから」
笑ってごまかしかけたけれど、私はやめた。気にかけてくれる人がいるなら、素直に認めてもいい。
「ちょっと、友達と話してくるね」
ノエルは小さく頷いて、背中を押すように「行ってらっしゃい」と言ってくれた。
授業後、私はルシアンを中庭の回廊へ呼び出した。蔦の葉が風に揺れ、遠くで噴水が鳴っている。
「昨日のこと、ちゃんと謝りたい」
「僕も、言い方が足りなかった」
同時に口を開いて、二人で小さく笑った。
「私、家族のことが心配で。何か起きたら、絶対に助けたいって思ってる。だから前へ出るなって言われると、何もできないみたいで怖くなる」
ルシアンは急かさず聞いていた。
「昨日、君が『私なら間に合う』と言っただろう」
ルシアンは回廊の柱に視線を落とした。
「間に合うと思う。君の剣は速いから。でも、その判断を君だけが抱えたら、僕たちは君がどこへ行くか分からない。後衛の守り方も変えられないんだ」
「……私が走ったあと、みんなが困るってこと?」
「困るだけならいい。僕が怖いのは、君が無事でも、誰かを守れなかったと思って自分を責めることだよ」
幼いころ、村の外れで魔狼に出くわした日のことを思い出した。あのときも私たちは、互いの姿が見える場所を確かめてから動いた。十二歳の私にできたことを、今の私が忘れていた。
「私、速く動くことばかり考えてた」
「速いことは悪くない。合図があれば、その速さを僕たちも使える」
風に揺れた蔦の影が、彼の制服の袖を横切った。ルシアンは昔から、私の力を小さく見積もったことがない。だからこそ、私は彼の心配を拒まなくていいのだと思えた。
「僕は、君に何もするなと言いたいわけじゃない。君が一人で全部引き受けたあと、誰にも相談できなくなるのが怖いんだ」
「ルシアンも、怖いの?」
「もちろん。君が大切だから」
回廊の向こうで鐘が鳴った。私は急に、自分の心臓の音が気になった。
「……うん。私も、ルシアンが大切だよ」
彼は少しだけ目を伏せた。「ありがとう」
昔なら、ここで剣の話をして照れくささを誤魔化しただろう。今日はそれをしなかった。
「ねえ、ルシアン」
「何?」
「私が無茶をしそうになったら、止めてくれる?」
「止めるよ。ただ、理由は話す。君が納得するまで」
「私も聞く。……すぐに反論しないように頑張る」
「そこは少し難しそうだね」
「ひどい!」
二人で笑うと、張りつめていた胸の奥がほどけた。
翌日の合同訓練では、私はルシアンの言葉を思い出しながら前衛に立った。アレクシスが中央で盾を構え、ルシアンは後方の合図役を引き受ける。
「右から二つ。エレナ、まだ出ないで」
動く標的が柵の陰から現れた。私は踏み込みたい衝動を抑え、足を止める。アレクシスが一つ目を盾で受けた瞬間、もう一つが横へ抜けた。
「今!」
ルシアンの声で私は走り出した。木剣を低く滑らせて標的の進路を断ち、すぐに戻る。後ろから吹いた風が砂を払ってくれたので、味方の位置が見えた。
「よし、戻れた!」とアレクシス。
私も嬉しくなった。けれどルシアンの表情はまだ硬い。
「最初の一歩、怖かった?」
「君が止まってくれるかどうか、わからなかったから」
胸の奥がちくりとした。私が剣を振る速さを信じてくれていても、止まる判断まで信じてもらえていたわけじゃない。
「次も合図を聞くよ」
「僕も、君が動ける場所をちゃんと作る」
そう約束すると、もう一度木剣を握る手が軽くなった。
ルシアンは私の手の甲を一瞬だけ見た。差し出しかけた手を引っ込めたようにも見えたけれど、気のせいかもしれない。私のほうも、なぜか自分の指先を制服の裾に隠してしまった。
いつか、剣の間合い以外にも、こんなふうに戸惑う距離があると分かる日が来るのだろうか。
「次は、前に出る前に合図する」
「僕も、理由を先に話す」
それだけの約束なのに、昨日よりずっと近くに立っている気がした。




