第71話 閉ざされた廊下の朝
朝の学院は、焼きたてのパンの匂いがする。いつもなら私は、その匂いに釣られて食堂へ一直線に向かう。
けれど今日は、廊下の曲がり角に立つ木製の衝立の前で足が止まった。
『設備点検中。通行禁止』
見慣れた中庭への近道が、昨日より一本増えた縄で塞がれている。
「……食堂が遠くなった」
「最初に心配するのはそこなんだね」
背後からルシアンの声がした。振り向けば、紺色の制服の襟をきちんと留めた彼が、書類を抱えて立っている。
「朝食は大事だよ。剣の素振りにも授業にも、力がいるもの」
「その意見には賛成。でも、ここを飛び越えようとしたら止めるよ」
「しないよ!」
言い返したものの、ほんの少しだけ縄の高さを測ってしまった。ルシアンの目が細くなる。
「今、測ったでしょう」
「……見なかったことにして」
彼は笑い、別の廊下へ歩き出した。私も並ぶ。窓の向こうの芝生には朝露が残り、白い石畳が薄青く光っていた。いつもの学院なのに、見回りの先生が一人増えただけで空気が違う。
「北の件、昨夜も眠れなかった?」
私は胸元のポケットを押さえた。リリアの手紙は寮の引き出しにしまってある。それでも、そこにあるような気がする。
「眠れたよ。少しだけ、夢を見たけど」
「どんな?」
「リリアが私より先に魔物を追いかけて、私が怒ってる夢」
「現実でも起こりそうだ」
「だから困るの!」
笑い合うと、胸の奥に張り付いていた心配が少しほどけた。
食堂には、もう四人の友達が揃っていた。フィオナが手を振り、ミレイユが空いた席を示す。ノエルは小さな紙片に何かを書き込み、セレスティーヌは温かい茶器を両手で包んでいる。
「エレナ、掲示板を見た?」とフィオナ。
「通行禁止が増えたことなら」
「それもだけど、来週の共同防衛演習よ。全学年じゃなくて、一年生の希望者を中心にやるんだって」
私はパンを取る手を止めた。
「防衛演習?」
「魔法科と剣術科の合同。後衛を守りながら指定地点まで物資を運ぶんですって」とノエルが説明する。
セレスティーヌが視線を落とした。「先生から、私にも参加を勧められました。《聖晶》を使う機会になるから、と」
五秒。彼女の盾が今、安定して形を保てる時間だ。誰かを守るには短く感じる。でも、五秒あればできることだってある。
「一緒にやろう」と私は言った。
セレスティーヌはすぐには頷かなかった。「皆さんの足を引っ張りませんか」
「引っ張られたら、私たちも引っ張り返すよ」
「それ、助けるという意味になってる?」とミレイユが眉を上げる。
「もちろん!」
笑いが広がる。けれどセレスティーヌは、笑ったあとでそっと頷いた。
「……では、お願いします」
その声には、以前より確かな芯があった。
食後、掲示板の前に人だかりができていた。演習の目的は『個人の戦果ではなく、護衛対象の安全と情報共有を評価する』と記されている。
「いいね」とルシアンが呟く。「君が一人で全部片づけたら、むしろ減点かもしれない」
「えっ」
「冗談半分、本気半分」
閉鎖された廊下を迂回した先で、私たちは訓練庭の端に寄った。ガルド先生が、通路の幅を示す白線を新しく引いていたからだ。
「狭い場所での護衛を確認する。エレナ、ルシアン、アレクシス」
名前を呼ばれ、私は木剣を受け取った。アレクシスは練習盾を構え、ルシアンは二人の後ろに立つ。木製の標的が左右の柵から押し出される仕組みだ。
最初の標的は私が剣の平で弾いた。二つ目が足元へ来る。踏み込めば後ろのルシアンとぶつかる。
「左、任せて!」
アレクシスが盾を低くし、標的を止めた。衝撃に足を踏ん張る彼の背後で、ルシアンの風が舞い上がった砂を払う。
「止まれ。今の一歩を説明しろ」とガルド先生。
私は白線を見下ろした。剣が届くことと、安全に剣を振れることは違う。閉ざされた廊下の向こうで何が起きているかを知りたい気持ちも、同じように一度止めて考えなければならない。
私は紙の文字をもう一度見た。守ることと、勝つことは違う。ガルド先生にも何度も言われた。
学院の鐘が鳴る。新しい一週間は、いつもより少し遠回りの廊下から始まった。




