第70話 北方からの知らせと学院の鐘
朝の鐘が鳴る少し前、父から新しい手紙が届いた。
私は封筒を持ったまま、寮の窓辺に立った。外には淡い霧が流れ、石畳がまだ夜の湿り気を残している。
『エレナへ。こちらの状況を知らせる。魔物の目撃は、例年の同じ時期より多い。森の外縁で見つかった足あとは複数種が混じっており、単なる季節の移動だけでは説明しにくい』
息を止めた。
『ただし、領内の警備は機能している。村々との連絡も取れており、今のところ大きな被害はない。おまえが心配するのは分かるが、学院で学ぶことを続けなさい』
私は手紙を握りしめた。
安心と不安が、同じくらい胸に広がる。家族は無事だ。でも、何かが変わっている。
最後には、母の字で短い追伸があった。
『朝ごはんを抜かないこと。お友達と笑うこと。リリアはあなたの返事を楽しみにしています』
「お母さま……」
追伸の下には、もう一行あった。リリアの筆跡だ。
『お姉さま。帰ってきたら、いちばん最初に私と稽古してください。お姉さまがいない間に、新しい技を覚えました』
私は思わず笑って、便箋をそっと撫でた。
「もちろん。最初に相手をするよ」
誰もいない部屋で答えてから、少しだけ泣きそうになった。リリアの新しい技を見たい。父の笑い声を聞きたい。母の作る温かいスープを飲みたい。
祖父と剣を交え、祖母に魔力の無駄遣いを叱られたい。
そんな何でもない願いが、遠く離れるとひどく贅沢に感じられる。
でも、家族が私に望んでいるのは、心配で立ち止まることではない。学院で友達と過ごし、学び、元気に帰ってくることだ。
「分かったよ、リリア」
私は手紙を畳み、胸元にしまった。
私は小さく笑った。
その日の昼、ガルド先生に手紙の内容を伝えた。先生は真剣な顔で頷き、北方の情報は学院の警備担当にも共有されていると言った。
「学生が勝手に動く必要はない。ただ、学院内でも設備点検と巡回を少し増やす」
「危険なんですか?」
「今すぐ危険だと決まったわけじゃない。何かあってから慌てないためだ」
リディア先生も同席していた。
「魔力灯の件も、点検を続けています。原因はまだ分かりません。だからこそ、異常を見たら触れずに知らせてください」
「はい」
私ははっきり答えた。
午後の授業が終わると、学院の掲示板に新しい紙が貼られていた。
『当面の間、夜間の校舎利用は届け出制とします。設備点検のため、一部通路を順次閉鎖します』
フィオナが目を丸くする。
「ちょっと物々しいね」
「でも、先に知らせてくれるのは助かるわ」とミレイユ。
ノエルは通路の位置を確認し、セレスティーヌは寮までの別の道を指で辿った。
「皆さん、帰り道が変わりますね」
「迷ったら一緒に帰ろう」と私。
アレクシスが笑った。
「エレナが先頭なら、迷う前に走りそうだな」
「走らないってば!」
「じゃあ俺が最後尾。誰かが遅れたら分かる」
ルシアンが穏やかに言う。
「それなら僕は分かれ道を確認するよ」
「じゃあ私は、途中で寄り道しないようにする!」
胸を張って宣言すると、アレクシスが吹き出した。
「それが一番難しそうだな」
「ひどい!」
「でも、エレナが迷子になったら困るものね」とミレイユ。
「学院の道は覚えたよ!」
「先週、厨房の裏口へ行こうとして倉庫に着いたのは誰だったかしら」
返す言葉がなくなって、私はルシアンを見た。彼は助け舟を出す代わりに、口元を手で隠している。
「ルシアンまで笑ってる!」
「ごめん。君が皆に囲まれているのが、少し嬉しくて」
思いがけない返事に、私は言葉を失った。
三年前、彼が王都へ移ったとき、私は寂しくても手紙には元気な話ばかり書いた。彼もきっと、同じように寂しさを隠していたのだろう。今はこうして、同じ道を歩いている。
「私も嬉しいよ」
小さく答えると、彼は一度だけ頷いた。それだけで、何か大切な約束を交わしたような気がした。
小さな役割分担に、私は少し安心した。
夕方、皆で寮へ向かう途中、あの魔力灯のある廊下を通った。灯りはいつもどおり静かに輝いている。点検札が掛けられ、近くには教師が立っていた。
私は足を止めかけて、やめた。
気になることはある。でも、今は私が触れるべきではない。
「エレナ?」
ルシアンが振り向く。
「ううん。行こう」
窓の外では、夕日が学院の尖塔を赤く染めていた。
私が望んだ平穏な学院生活は、思っていたより騒がしい。友達が増えて、守りたい人が増えて、心配も増えた。
それでも、ここで笑う時間を失いたくない。
北方からの知らせを読んだ日の夕方、私はルシアンとアレクシスに頼み、訓練庭で三対三の模擬戦を見学させてもらった。私たちが実際に向き合うのは、正体のわからない敵かもしれない。
「見学だけでいいの?」とアレクシス。
「最初はね。相手の癖を知りたい」
学院の上級生が三人、木剣と練習盾を構える。私は先頭の一人と向き合い、ルシアンは後方から風で足元の砂を払い、アレクシスが左を守った。
笛が鳴る。正面の木剣を私は受け流し、相手の踏み込みに合わせて半歩ずれた。斬り返す前に、右から別の剣先が伸びる。
「エレナ、右!」
ルシアンの声。私は無理に振り向かず、低く身を沈めた。アレクシスの盾が横から入って打撃を受け、彼は衝撃を逃がすために膝を曲げる。
「今だ!」
私は盾の陰から踏み出し、相手の木剣を弾いた。ルシアンの風が上級生の足元の砂を払って視線を誘い、その隙にアレクシスが前へ出る。勝負は短い時間で終わった。
「強さを見せるより、味方を見失わない方が難しいな」
アレクシスの言葉に、私は頷いた。北の森で何が起きているのかはまだわからない。それでも、備える方法なら少しずつ増やせる。
遠くで鐘が鳴る。
その音に重なるように、北から冷たい風が吹き込んだ。
私はリリアの手紙を胸に抱き、皆の後を追った。
明日も、きっといつもの朝が来る。
その朝を大切にするために、今できることを一つずつ選ぼう。




