第69話 守りたい気持ちの重さ
調べものを始めて一週間。私はようやく、眠る前に手紙を読み返さずに済むようになった。
けれど安心した途端、体の方が疲れを思い出したらしい。
「エレナ、顔色がよくないよ」
朝食の席でノエルに言われた。
「ちょっと寝不足なだけ」
「その『ちょっと』が三日続いています」
「そんなに数えてたの?」
「顔色と食事の量は、見ていれば分かります」
ノエルの言葉に、私は昨日の夕食を思い返した。確かに、パンを半分残した。寝る前にはリリアの手紙を読み返し、北の森で風が鳴る音まで想像してしまった。
「心配してくれてありがとう」
「お礼を言うなら、今日はきちんと休んでください」
彼女は真剣だった。私よりずっと小柄なのに、こういうときは母に似た迫力がある。
故郷では、熱を出すとリリアが寝台の横に座ってくれた。何か役に立ちたいのか、何度も水を替え、毛布を掛け直し、最後には自分が先に眠ってしまう。
あの小さな手の温かさを思い出すと、胸がきゅっとした。
もし私が今、倒れたら。リリアはきっと怒るだろう。『お姉さま、自分のことも守ってください』と。
彼女は薬草茶の入った小さな瓶を差し出した。
「眠りやすくなる香りです。飲みすぎないでくださいね」
「ありがとう」
蓋を開けると、故郷の庭にもあった花の匂いがした。懐かしさに胸が詰まる。
授業では、リディア先生が魔力制御の基礎を教えた。
「力が強いほど、使わない判断が重要になります」
私はその言葉を、何度も心の中で繰り返した。
雷の魔法なら、遠くの敵にも届く。剣なら、目の前の危険を払える。でも、今の私が相手にしているのは、姿も見えない不安だ。
放課後、私は訓練場の端で一人、木剣を握っていた。
振り上げようとして、やめる。
代わりに深く息を吸った。
「珍しいね。君が剣を振らずに立っているなんて」
振り返ると、ルシアンがいた。
「今日は休む練習」
「それは難しそうだ」
「うん。かなり」
彼は私の隣に立ち、暮れかけた空を見上げた。
「北の件、先生方が正式に確認してくれている。僕たちができることは、もう十分やったと思う」
「まだ何も解決してないよ」
「全部解決するまで休まないつもり?」
答えられなかった。
彼は続ける。
「君が倒れたら、リリアが一番悲しむよ」
「……そうだね」
しばらく黙っていると、遠くでアレクシスの笑い声が聞こえた。仲間たちは普通の学院生活を送っている。私もそこに戻っていいのだろうか。
「心配をやめなくても、楽しいことをしていいんだよ」
ルシアンの声は、驚くほど優しかった。
「故郷を忘れることにはならない」
「でも、私が笑ってる間に何かあったらって思うんだ」
言い終えると、急に情けなくなった。誰かの不幸を予感するだけで、楽しい時間を諦めようとしている。
「君が笑わなくても、北の出来事が変わるわけじゃない」
ルシアンは厳しいことを、驚くほど優しい声で言った。
「逆に、笑える時間を全部手放したら、君はどんどん疲れてしまう。そうなったとき、誰かを支える力もなくなるよ」
「……うん」
「僕も、心配なことはある。でも君と話していると、明日を少し楽しみにできる」
私は思わず顔を上げた。
「私と?」
「そう。君が何を食べて笑うのか、どんな授業で目を輝かせるのか。そういうことを、見ていたいと思う」
夕暮れの光が彼の横顔に落ちていた。言葉の意味を考えようとすると、胸の中が妙に騒がしくなる。
「じゃあ、明日のお菓子は二つ買うね」
「どうして?」
「一つはルシアンの分。私だけ食べてたら、楽しみが半分でしょう?」
彼は一瞬目を見開き、それから静かに笑った。
「ありがとう。楽しみにしてる」
その笑顔を見て、私も明日が少し待ち遠しくなった。
私は目を閉じた。風が頬を撫でる。
「じゃあ、明日は皆とお菓子を食べる」
「いいね」
「その次の日は、剣の練習をする」
「それもいい。ただし休憩を挟んで」
「厳しいなあ」
彼が笑った。
翌日、私はミレイユたちに謝った。調べものに付き合わせて、いつもの時間を減らしてしまったことを。
「付き合わされたんじゃないわ」とミレイユ。「自分で決めて手伝ったの」
「それに、今度は私たちがあなたに頼るかもしれないし」とフィオナ。
セレスティーヌは静かに頷いた。
「頼り合うのが友達なのだと思います」
私は笑って、皆と焼き菓子を分けた。
心配が消えたわけじゃない。でも、抱え方は少し変わった。
疲れが抜けないまま訓練庭に立つと、普段なら避けられる木製の標的に木剣が遅れた。
「エレナ、止めよう」
ルシアンの声に反発しかけたが、次の一歩で靴底が砂を滑った。アレクシスが盾を差し入れ、標的が私の肩へ当たるのを防いでくれる。
「怪我は?」
「ない。……ありがとう」
私は悔しくて木剣を握り直した。するとルシアンが、訓練札を三枚だけ地面に並べた。
「今日は斬らなくていい。危険を見つけた順に声にして」
「それ、訓練になる?」
「疲れているときほど、判断が先に崩れるから」
私は一枚ずつ札を指し、アレクシスが盾の向きを変え、ルシアンが風で残りの札を止める。たったそれだけの動きでも、三人の息が合うと安心できた。
「強い人でも休むのか」とアレクシスが冗談めかして言う。
「休まない強い人は、たぶんすぐ弱くなるよ」
自分で答えて、私はようやく笑えた。
その夜、リリアへの手紙にこう書いた。
『私は元気です。今度は本当に、一回だけ書きます』
きっと妹は、声を出して笑うだろう。




