第65話 遠くにいるからこそ
「帰省の許可を取るつもり?」
ルシアンの問いに、私は足を止めた。
午後の回廊は静かで、窓の外の木々が金色に染まっている。北の地図を調べ始めてから、私は時間さえあれば故郷への道のりを考えていた。
「まだ決めてない。でも、もし何かあったら……」
「その『もし』が何なのか、僕たちはまだ知らない」
「分かってるよ」
自分でも驚くほど、強い声が出た。
ルシアンが黙る。私はすぐに後悔したけれど、口から出た言葉は戻らない。
「リリアがいるんだよ。お父さまもお母さまも、おじいさまたちも。心配するなって言われても、無理だよ」
「心配するなとは言っていない」
「じゃあ、どうして止めるの?」
「君が一人で抱えて、何も聞かずに走り出しそうだから」
風が回廊を通り抜けた。
その言葉は正しかった。正しいから、少し腹が立った。
「ルシアンには分からないよ」
自分の声が、回廊の石壁に冷たく返ってきた。
言ってはいけない言葉だった。分かっている。ルシアンはずっと私の話を聞いてくれているし、手紙の読み方も、父への尋ね方も一緒に考えてくれた。
それなのに、家族の顔が浮かぶたび、私の中の焦りが誰かを責める形になってしまう。
彼の沈黙はほんの一瞬だった。その一瞬が長く感じられた。
幼いころ、リリアが転んで泣いたとき、私は傷を見もしないで抱き上げ、屋敷へ走ったことがある。母はまず傷口を洗い、落ち着いて手当てをした。
『大事に思うなら、慌てる前に見てごらんなさい』。その言葉を何度も聞いたはずなのに、私はまた同じことをしている。
目の前のルシアンを傷つけてまで、いったい何から逃げようとしているのだろう。
言った瞬間、彼の表情がほんの少し変わった。
「……そうだね。君と同じ気持ちだとは言えない」
彼は視線を逸らさなかった。
「でも、僕にもフェルンヴァルトに家族がいる。エミリアも、父上も母上も。北の話を聞いて、何も感じていないわけじゃない」
胸が痛んだ。
私は自分の不安ばかり見て、彼の家族のことを忘れていた。
「ごめん」
「謝ってほしくて言ったんじゃないよ」
「それでも、ごめん。ルシアンも心配だよね」
「うん」
たった一文字の返事だった。でも、そこに三年分の手紙の時間があるように思えた。
私たちは窓際の長椅子に座った。しばらく、遠くの鐘の音だけを聞く。
「僕は君を止めたいんじゃない」とルシアンが言った。「君が故郷に帰るなら、理由を確かめて、必要な手続きをして、無事に戻れるようにしたい」
「私、もう剣を持って飛び出すところだった」
「知ってる」
「そんなに分かりやすい?」
「君の足が、さっきから北門の方を向いている」
私は慌てて足を引っ込めた。彼が笑う。
「それに、リリアからの手紙は『心配しないで』という意味もあると思う。君が勝手に危険な場所へ行ったら、きっと怒る」
「……絶対に怒る」
妹の顔が浮かび、私も笑ってしまった。
夕食後、私は父に手紙を書いた。見張りが増えた理由、魔物の数、学院にいる私ができること。『帰りたい』と書く代わりに、『必要なら知らせてください』と書いた。
書き終えると、指先が少し軽くなった。
翌朝、ルシアンに手紙を見せる。
「これなら、家族も返事をしやすいと思う」
「うん。昨日はありがとう」
「僕の方こそ、言い方が硬かった」
「いつも落ち着いてるから、心配してないのかと思っちゃった」
「落ち着いて見せるのは、得意な方だから」
「じゃあ、私の前では得意じゃなくてもいいよ」
口にしてから、少し照れた。そんなことを言うつもりで手紙を見せたわけではなかったのに。
「……どういう意味?」
「心配なら、心配だって言って。私も聞くから。ルシアンがいつも私の話を聞いてくれるみたいに」
彼はすぐには答えなかった。窓の向こうで風が落ち葉を舞い上げる。
「僕は、君が北へ一人で行ってしまうかもしれないと思うと、怖かった」
静かな声だった。
「君なら危険な場所でも何とかしてしまう、と信じている。でも、何とかできることと、無事でいられることは違うから」
胸の奥がきゅっとした。彼は私の力を知らないから止めているのではない。知っているからこそ、心配してくれている。
「一人では行かない。何かあったら、ちゃんと相談する」
「約束?」
「約束」
帰省の話をした翌日、私たちは学院の小さな演習場で向き合った。言い争いの続きを剣で決めるつもりはない。それでも、体を動かした方が素直に話せることもある。
「私が前衛。ルシアンが後衛。いつも通りでいい?」
「今日は逆にしよう」
彼は木剣を持たず、私の前に立った。風で舞う訓練札が、左右から二人の間を抜けてくる。私は彼の肩越しに札を見て、最初の一枚を木剣の平で払った。
「見えない!」
「僕も、君が後ろにいると視界が狭い」
次の札が迫る。ルシアンは風で速度を落としたが、横へ逃げれば私の剣とぶつかる。私は「しゃがんで!」と声をかけ、彼が身を低くした瞬間だけ、剣を横へ通した。
鈴が鳴った。
「合図があれば、できる」
「……そうだね」
私は木剣を下ろす。守るつもりで前に出るだけでは、背中を預ける相手の動きを奪ってしまう。ルシアンもまた、私の視界を確かめるために何度も振り返っていた。
「次は、最初に相談しよう」
「うん。僕も、決めつけない」
差し出された小指に、自分の小指をそっと絡めた。子どものころから何度も交わした仕草なのに、今日はなぜか指先が熱かった。
「……ずるいね」
「そうかもしれない」
彼は小さく笑った。
遠くにいる家族を守る方法は、剣を振ることだけじゃない。私たちの間に生まれた小さなすれ違いが、その当たり前のことを教えてくれた。




