第64話 北の地図にない獣道
四日後、リリアから二通目の手紙が届いた。
前よりも封筒が厚い。机に広げると、便箋のほかに小さな地図が入っていた。白銀の森の外縁、猟師小屋、川、そして見慣れた林道。リリアの字で『ここ』と丸がついている。
『お姉さまへ。森には入っていません。約束は守りました。足あとの話は、猟師のハンスさんにお父さまが聞いてくれました』
「よかった……」
私は椅子の背に体を預けた。『森には入っていません』という最初の一文だけで、昨日まで張り詰めていた何かが緩んだ気がする。
けれどすぐに、リリアの顔が浮かんだ。あの子は約束を守ったことを、胸を張って報告しているに違いない。
「偉いよ、リリア」
思わず声に出すと、部屋にいたミレイユが振り向いた。
「妹さん?」
「うん。勝手に森へ行かなかったって」
「それは安心ね」
「でも、地図まで描いてくれたんだ」
私が広げた紙を見て、ミレイユは感心したように目を細めた。
「細かいわね。川の曲がり方まで書いてある」
「リリア、昔から絵が好きなんだ。人の顔を描くときは、剣を持ってるかどうかで見分けるんだけど」
「それ、あなたの影響でしょう?」
「……たぶん」
二人で笑う。故郷の話を声に出すだけで、遠くにいる妹が少し近くなった。
思わず声が出る。
『足あとは大きな狼に似ていたけれど、指の向きが少し変だったそうです。三日前には、普段は近づかない川沿いで魔物が見つかりました。けが人はいません。お父さまたちが見回りを増やしています』
最後に『お姉さま、蜂蜜のお菓子ありがとう。エミリアちゃんと半分こしました。ルシアンさまにもお礼を伝えてください』とあった。
私は菓子の感想に笑い、それから地図を見つめた。
川沿い。あそこは獣の水飲み場があるが、人の通る道からは少し離れている。魔物が出るとしても、ふつうは森の深い方だ。
昼休み、図書室の隅でルシアンと地図を広げた。
「ここ、覚えてる?」
「君が九歳のころ、川で靴を片方流した場所だね」
「そんなことまで覚えてなくていいよ!」
「僕が拾ったから、忘れにくい」
「あのとき、濡れた靴を持って帰ったら、お母さまに二人とも叱られたよね」
「僕は君を川へ入れたと思われた」
「違うって言ったのに!」
「君は『ルシアンは悪くありません、私が先に飛び込みました』って」
「……余計に怒られた」
思い出すと、今でも耳が熱くなる。ルシアンは私を庇って、自分も足を濡らしたことを黙っていた。
あのころから彼は、私の無茶をただ止めるのではなく、後始末まで一緒に引き受けてくれていたのだ。
「ねえ。あのとき、どうして靴を拾ってくれたの?」
「君が裸足で帰るのを嫌がったから」
「それだけ?」
「……泣きそうな顔をしていたから」
私は地図から顔を上げた。彼は視線を落としたまま、ペンの先を整えている。
九歳の私は、川に流される靴を見て泣きそうになった。でも今は、森で何が起きているか分からなくて泣きそうだ。そんなとき、また同じ人が隣にいる。
「ありがとう、ルシアン」
「昔の靴のこと?」
「それも。今のことも」
彼は答えず、手帳を私の方へ少し寄せた。その静かな仕草に、胸が温かくなった。
私は頬を膨らませた。でも、彼の指が地図の線を追うのを見ていると、自然に肩の力が抜けた。
「この林道は、去年の雨で一部崩れたはずだ」
「そうだね。猟師さんは遠回りするって言ってた」
「なら、見つかった場所は人の移動経路とは重なりにくい。魔物が人を追った、と決めつけるのは早い」
ルシアンは手帳に二つの欄を書いた。『確かなこと』『まだ分からないこと』。
「リリアの話では、魔物が川沿いで見つかったことは確か。でも、どこから来たかは不明」
「足あとの形も、直接見たわけじゃない」
「そう。人づての情報は大切だけど、少しずつ形が変わることもある」
私は頷いた。すぐに剣を持って駆けつけたい気持ちが、また頭をもたげる。それを押しとどめるために、地図の端を指で押さえた。
そこへノエルが古い動物図鑑を持って来た。
「お二人が探していた本、返却棚にありました」
「ありがとう!」
ページをめくると、北方に棲む魔獣の足跡がいくつも載っていた。似た形はある。でも、リリアの手紙だけではどれとも断定できない。
「これを見たら、余計に分からなくなった」
「分からないと分かったのは前進です」とノエル。
「ノエル、前向きだね」
「薬草も、似ているものを間違えると危険ですから」
彼女の言葉は、妙に重みがあった。
夕方、学院の備品庫へ寄った。公開祭のあとで見つけた星印の箱を、寄贈目録と照らすためだ。管理担当の先生に許可をもらい、ルシアンと一緒に帳簿をめくる。
箱は数十年前に寄贈された品らしい。古い記録はところどころかすれていて、印の意味までは分からない。
「北の地図と関係あるかな」
「今は何とも言えない。似ているものを結びつけたくなる気持ちは分かるけどね」
ルシアンの慎重さがありがたかった。
地図を机に広げた翌日、ルシアンは訓練庭の砂に細い道を描いた。
「森の獣道に似た幅だよ。二人で通ると、剣を振る場所がなくなる」
「じゃあ一人ずつ?」
「それだと後ろが見えない。試してみよう」
木製の標的が三つ、道の両側に置かれた。私は先頭に立ち、ルシアンは少し後ろから風で標的の札を揺らす。合図を見落とせば、横から襲われた扱いだ。
一つ目は低く屈んでかわし、木剣で札を弾いた。二つ目は振り向く時間がない。
「右、足元!」
ルシアンの声に合わせて踏み替える。風が標的の進路をわずかに逸らし、私の剣先が届いた。三つ目はあえて追わない。背後のルシアンと並んで道を塞ぎ、通過する役の木箱を守った。
「こういう場所で大きな魔法を使ったら、味方まで巻き込むね」
「そう。森では特に、見えていない相手がいる」
私は砂の線を見下ろした。故郷の森なら、木の根も斜面も加わる。地図の一本の線を、実際に歩ける道だと思い込んではいけない。
寮へ戻るころ、空は薄い紫色になっていた。地図の丸印は、まだただの丸印だ。
それでも、知らないことに名前をつけて、ひとつずつ確かめる。
今の私には、その歩き方が必要だった。




