第63話 心配を隠すのは下手らしい
「エレナ、三回目」
「何が?」
「同じところで剣先が止まった」
ガルド先生の声に、私は慌てて木剣を下ろした。
朝の実技場には乾いた土の匂いが満ちていた。いつもなら足裏に伝わる地面の感触が気持ちよくて、自然と集中できる。けれど今日は、剣を振るたびにリリアの手紙が頭をよぎった。
「すみません」
「謝る前に理由を考えろ。相手の剣を見ていない」
「……はい」
先生は怒鳴らなかった。それが余計に堪える。
向かいに立つアレクシスが、木剣を肩に担いだ。
「今日は調子が悪いのか? だったら休憩しよう」
「平気。もう一回お願い」
「平気な顔には見えないけどな」
私は構え直した。次の打ち込みで、アレクシスの剣を受け損ねる。木剣が乾いた音を立てて肩の横を通った。
「そこまで」
ガルド先生が間に入る。
「心が別の場所にあるとき、腕だけで勝とうとするな。今日の課題は勝つことじゃない。危ないと分かったら止まることだ」
先生の言葉に、木剣の柄を握る指がじんとした。
祖父なら、こういうとき何と言うだろう。『剣は気持ちを隠してくれんぞ』。きっと、いつもの大きな声で笑いながらそう言う。
リリアは隣で私の真似をして、眉をきりっと寄せるだろう。
その姿を思い浮かべた瞬間、また集中が切れた。悔しくて、私は木剣を地面に立てた。
「先生、今日は型の確認に切り替えてもいいですか」
ガルド先生の片眉が上がる。
「ほう。自分から言えたか」
「無理に打ち合ったら、アレクシスにも迷惑をかけます」
「それでいい。強い者ほど、退く判断を忘れがちだ」
アレクシスが軽く私の肩を叩いた。
「次にやるときは、遠慮なく勝負しようぜ」
「そのときは負けないよ」
「言ったな!」
笑って返せたのに、胸の重さは消えなかった。家族の無事を確かめたい気持ちと、目の前の仲間を傷つけたくない気持ち。どちらも大切なのに、うまく両立できない。
悔しかった。剣のことなら何でもできるつもりでいた自分が、こんな簡単なこともできない。
昼食で、その悔しさをつい言葉にしてしまった。
「みんなはいいよね。私みたいに気が散らないで」
言ってから、空気が静かになった。
ミレイユが持っていた匙を置く。
「それ、どういう意味?」
「あ……違う。そういうつもりじゃ」
「私たちだって心配はしているわ。あなたが何も話さないから、どう手伝えばいいか分からないだけ」
胸がきゅっと縮んだ。
ノエルは視線を落とし、フィオナもいつもの笑顔を引っ込めている。セレスティーヌは私とミレイユを交互に見た。
「ごめん」
謝る声が、思ったより小さくなった。
「心配させたくなくて。でも、森のことが気になって、何もできないのが嫌で……八つ当たりした」
ミレイユはしばらく黙っていた。やがて大きく息を吐く。
「そう言ってくれたらいいの。私たちは、あなたがいつも元気だから友達になったんじゃないわ
その一言で、喉の奥が熱くなった。
私はずっと、明るくしていれば皆が安心すると思っていた。剣の腕も魔法の力も、隠しておきたいものが多い。せめて笑顔だけは本物でいようと、そう決めていたのかもしれない。
「私、怖いんだ」
言葉にした途端、視界が少し滲んだ。
「リリアは元気だって書いてくれた。でも、あの子は心配をかけないように、怖いことほど最後に書くんだよ。小さいころ熱を出したときも、『大丈夫』って笑って……」
「エレナ」
ミレイユが席を立って、私の隣へ来た。
「私たちは、あなたの家族の代わりにはなれないわ。でも、ここで一緒に心配することはできる」
フィオナが無言で水差しを寄せ、ノエルが清潔な布を差し出してくれた。セレスティーヌは急かさず、私が落ち着くまで待っていた。
こんなふうに人に囲まれて泣きそうになるのは、いつ以来だろう。
「……ありがとう」
今度の声は、さっきより少しだけ大きく出た。」
「……うん」
フィオナがパンを半分に割った。
「はい。まず食べよう。空腹だと心配も二倍に見えるよ」
「それ、商会の教訓?」
「ううん、私の経験」
皆の口元が少し緩んだ。
放課後、私はミレイユと二人で洗濯室へ向かった。窓から入る風に、干した白い布がゆっくり揺れている。
「さっきは本当にごめん」
「もう聞いたわ」
「でも……」
「エレナ。あなたは守りたい人がいると、すぐ自分だけで何とかしようとするのね」
私は返事ができなかった。
「その気持ちは分かる。でも私たちが心配する権利まで、取り上げないで」
その言葉は、強く叩かれたように胸に残った。
夕暮れの回廊でルシアンを見つけたとき、私は今日の失敗を隠さず話した。
「私、友達に嫌な言い方をしちゃった」
「謝れた?」
「うん」
「なら、次は頼ってみることだね」
「ルシアンも同じこと言う」
「君のことをよく知っている人は、似た結論になるのかもしれない」
彼は私の歩幅に合わせて歩いた。
「十二歳のときもそうだった。魔狼が村に近づいたとき、君は真っ先に飛び出そうとした」
「あのときは、ルシアンが一緒に来てくれた」
「君が一人で行かないようにね」
「……そうだったんだ」
「今さら?」
ガルド先生は私の木剣を見て、訓練場の端に置かれた三本の杭を示した。
「相手の剣だけを見ているから止まる。ルシアン、補助に入れ」
ルシアンは頷き、杭の間に立つ。風の魔法で布片を浮かせ、左右から不規則に流し始めた。布には小さな鈴がついている。剣を当てれば鳴るが、強く叩けば杭まで倒してしまう。
「速さより、止める位置を考えて」
「わかった」
私は一枚目を剣の腹で受け、二枚目は半歩引いてかわした。三枚目が視界の外から流れてきた瞬間、体が先に動く。振り切ろうとした手首を、ぎりぎりで止めた。鈴だけが澄んだ音を立てる。
「今のはよい」とガルド先生。
ところが次の布片が来たとき、私は故郷の森を思い出して一歩遅れた。ルシアンの風が布を拾い、地面に落とす。
「……ごめん」
「謝る前に、何を見落としたか言って」
彼の声は穏やかだった。私は息を整え、杭と布の位置を見直す。戦うことに集中できない自分が悔しい。でも、その悔しさを無理に隠す必要もないのだと思った。
笑う彼の横顔を見ながら、私は気づいた。
私の『守る』は、ときどき誰かの『一緒にいたい』を見落とす。
それを直すのも、学院で学ぶことの一つなのかもしれない。




