第62話 蜂蜜菓子と返事の書き方
手紙を書くのは、剣を振るより難しい。
少なくとも、私にとってはそうだ。木剣なら相手の動きを見て踏み込めばいい。でも、便箋の向こうにいるリリアが、どんな顔で読むかまでは見えない。
「『私は元気です』を三回も書いているわ」
「一回目は挨拶。二回目は近況。三回目は念押しだよ」
「それを世間では繰り返しと言うの」
ミレイユは羽根ペンを取り上げるでもなく、私が自分で気づくまで待ってくれた。リリアに宛てる手紙なのだから、立派な文章でなくてもいい。
そう思うのに、最初の一行を書いた途端、伝えたいことが多すぎて順番が分からなくなった。
学院の鐘の音、食堂の焼きたてのパン、ノエルが教えてくれた薬草の名前。公開祭で皆と作った小さな庭のことも、書きたい。
でもリリアがいちばん聞きたいのは、きっと私がちゃんと笑っているかどうかだ。だからこそ、元気だと何度も書いてしまう。
「お姉さまの字、今日は少し硬いですね」
セレスティーヌが便箋の端を見つめて言った。
「字にも出るの?」
「私も緊張すると、文字の間が狭くなるんです」
彼女が示した自分の便箋には、整った小さな文字が並んでいた。私は自分だけが不器用なのではないと知って、少しだけ肩の力を抜いた。
机を覗き込んだミレイユが指摘した。
「だって、本当に元気だし」
「元気なのは分かったから、何をして元気なのか書きなさい」
隣でフィオナが笑う。
「『剣を振って元気です』も二回あるね」
「数えないで!」
午後の自由時間、私たちは談話室の丸卓を囲んでいた。窓際には陽が差し、磨かれた木の天板に長い四角を作っている。
ノエルは薬草の標本を整理し、セレスティーヌは小さな封筒に押し花を入れていた。
「手紙に入れるの?」
「はい。リリア様のお返事に添えられたらと思って。学院の中庭で咲いていた花です」
「きっと喜ぶよ。ありがとう」
セレスティーヌは照れたように微笑んだ。
公開祭のとき、彼女は人前で《聖晶》を使って倒れかけた人を守った。その後も、時折疲れが残ると話している。だから私は花を挟む細い指を見て、思わず尋ねた。
「今日は無理してない?」
「大丈夫です。昨日よりずっと楽です」
「ならよかった」
「エレナ様こそ、ずっと眉間に皺が寄っています」
私は反射的に額を触った。
「えっ、そんなに?」
「心配している人のお顔です」
言い当てられて、返事に困る。
妹に心配をかけたくない。でも何も聞かなければ、森で起きていることを知る機会を逃すかもしれない。どちらも間違いではないのに、選ぶのが難しかった。
「聞き方を変えてみたら?」とノエルが言う。「『危険なの?』ではなく、『どんな足あとだったの?』って」
「それなら、リリアも観察したことを書けるね」
「ただし、自分で見に行かないように一言添えるべきです」
ノエルの声は小さいけれど、妙に説得力がある。
「そうする」
私は便箋に書き足した。
『森のことは、お父さまたちに任せてね。足あとを見た猟師さんの話を、聞ける範囲で教えてください。自分で調べに行くのは禁止です』
書いたところで、リリアが口を尖らせる姿が浮かんだ。
『お姉さまも同じことをしそうです』
そう返されそうで、私は苦笑した。
夕食前、ルシアンと中庭で会った。石畳には落ち葉が積もり、噴水の水面が夕日を映している。
「返事はできた?」
「皆に手伝ってもらった。自分一人だったら『元気です』だけで終わってたかも」
「それはリリアが怒るね」
「『詳しく書いて』って追伸が来るよね」
彼は笑ったあと、私の手に小さな包みを渡した。
「何これ?」
「蜂蜜菓子。君が手紙に書いていた店のものに似ている。送るなら日持ちする方がいいと思って」
「ルシアン、そこまで考えてくれたの?」
「昔、エミリアに柔らかい菓子を送って、届くころには形がなくなっていたから」
想像して笑った私に、彼は少しだけ肩をすくめた。
「失敗から学んだんだ」
包みは二つあった。一つはリリア宛て、もう一つは私の分。
「君の分まで送ってしまわないように」
「じゃあ、ここで一つ食べてもいい?」
「もちろん」
包みを開くと、薄く焼いた菓子から蜂蜜と炒った木の実の香りが立った。ひと口かじると、ほろりと崩れる。甘さの奥に、かすかな塩気がある。
「おいしい……。リリア、きっと好きだよ」
「君も好きそうだと思った」
「そんなことまで分かるの?」
「昔、祭りで君が同じ味の菓子を二つ買ったから」
「覚えてる! 片方はリリアにあげるつもりだったのに、帰り道でお腹がすいて……」
「二つとも食べたね」
「その話は忘れて!」
ルシアンは珍しく声を出して笑った。昔の失敗を覚えているのは少し恥ずかしい。でも、三年間離れていた時間の向こうにも、彼の中には私との思い出が残っていた。
そのことが、菓子の甘さよりもじんわり嬉しかった。
手紙に菓子を添えるとき、私は包みの上に一行書き足した。『これはルシアンが選んでくれました。エミリアと仲良く食べてね』。
すると、リリアがすぐに返事を寄越す姿が目に浮かんだ。『お姉さま、ルシアンさまと仲良しですね』。私は慌ててその想像を追い払った。
そんなことをさらりと言うから、胸の奥がくすぐったくなる。
返事を書き終えたあと、私は気分転換に訓練庭へ出た。そこではアレクシスが、革張りの訓練盾を腕に固定している。
「ちょうどいい。エレナ、三本勝負しないか」
「三本だけ?」
「その言い方がもう怖いな」
ルシアンが審判役を引き受け、私たちは向き合った。一撃目は真正面から。木剣が盾に当たると、アレクシスの腕がわずかに沈む。《金剛》で盾の表面を強めても、衝撃そのものが消えるわけではない。
「重いな!」
「受け止めたのはそっちでしょ」
二撃目は足運びを変えた。盾の外側へ抜けるふりをして、反対側へ切り返す。アレクシスはすぐに追わず、私が戻る場所へ盾を先回りさせた。
「今のは?」
「ルシアンに教わった。守るものがあるなら、相手より先に場所を取れって」
最後の一撃は、私が寸前で止めた。盾を打つより、背後の赤い布へ剣先を向けたからだ。
「一本、エレナ」
ルシアンの判定に、アレクシスは苦笑した。
「次は布の位置を変えよう。君の癖を覚えたからな」
「じゃあ私は、次の癖を作るよ」
笑い合ううち、便箋に向かっていたときの肩の強張りが少しだけほどけた。
寮へ戻る道で、私は包みを両手で持った。手紙を通して、故郷と学院の間に細い橋が架かったような気がした。
けれど郵便箱に封筒を落とす直前、私はもう一度、三枚目の便箋を思い出す。
夜の見張りが増えた白銀の森。知らない足あと。
返事が来るまで、できることは限られている。
それでも私は、待つことも一つの勇気なのだと思うことにした。




