第61話 北風に乗った妹の文字
学院の朝は、鐘の音で始まる。
寮の窓を開けると、冷えた空気が頬を撫でた。
王都の秋は故郷より穏やかなはずなのに、今日は北の森を思い出すような匂いがした。
「エレナ、郵便が来ているわよ」
扉の外からミレイユの声がした。廊下に出ると、彼女が厚い封筒を掲げている。
「リーヴェルト領から。差出人は……リリアちゃん?」
「ほんと!?」
声が裏返ったのを自覚したけれど、恥ずかしがっている暇なんてなかった。リリアからの手紙は、入学してから何通か届いている。
それでも封筒を見るたび、私は故郷の門が目の前に開くような気持ちになる。
「昨日まで、郵便はまだかなって何度も聞いていたものね」
「そんなに聞いてた?」
「朝と昼と、夕食のあと。三回よ」
ミレイユは呆れたように言いながら、封筒の端を折らないよう私の手元へ寄せてくれた。そういうさりげない優しさが、最近はとてもありがたい。
故郷ではリリアが毎朝、私の部屋に飛び込んできた。学院に来てからは、その騒がしさがないことに慣れたつもりだったのに、手紙一通で胸の奥が急に賑やかになる。
私は封筒を受け取った。表には少し右上がりの文字で、私の名前が大きく書いてある。裏の封蝋には子爵家の紋章。その横に、小さな花の絵まで描き足されていた。
「走ると転ぶわよ」
「走らない! 早歩き!」
「それを走ると言うの」
部屋に戻り、机の上で慎重に封を切る。中には三枚の便箋と、押し花を挟んだ小さな紙片があった。
『お姉さまへ。学院のごはんはおいしいですか。剣の練習はしていますか。私は毎日しています。お父さまには休みなさいと言われますが、おじいさまは構えがよくなったとほめてくれました』
最初の三行で、もう笑ってしまった。
リリアらしい。たぶん父は、稽古場で木剣を振り回す末娘を見て、頭を抱えている。
『エミリアちゃんと競走したら、今日は私が勝ちました。次は二人でお姉さまたちの学院を見に行きたいです』
その文字の隣に、二人が並んで走る絵がある。髪の色だけは丁寧に塗り分けられていた。
けれど、三枚目で私の指が止まった。
『白銀の森の近くでは、夜に見張りの人がふえました。大人たちは心配いらないと言います。私も心配していません。でも、森から戻った猟師のおじさんが、いつもと違う足あとを見たそうです』
紙の端が、かすかに揺れた。
揺れていたのは紙ではなく、私の手だった。
白銀の森の朝を思い出す。霧の下りた草地をリリアが駆け、私が「転ぶよ」と追いかける。小さな妹はいつだって振り返って笑うだけで、少しも速度を落とさなかった。
父の声が遠くから響き、母が温かな上着を持って門で待っている。あの何でもない景色が、急に手の届かないものに思えた。
「お姉さま、私だって強くなったんですから」
以前、稽古で負けたリリアが頬を膨らませて言った言葉だ。あの子は弱くない。祖父の教えを熱心に聞き、木剣を握る手にはもう豆もできている。
それでも十二歳の妹が森の異変に近づくところを想像するだけで、心臓が嫌な音を立てた。
私は押し花を窓の光に透かした。小さな花びらはきれいに乾いている。リリアはこれを摘んだとき、どんな顔をしていたのだろう。
手紙に怖いことを書く前に、私を笑わせようとしてくれたのだろうか。
北の森は、私にとって怖い場所ではなかった。木々の影を見れば季節が分かるし、雪の下に残る獣道も知っている。
けれど、知っている場所だからこそ、いつもと違うという言葉が引っかかる。
『お姉さま、ちゃんと寝ていますか。私がいないからって無茶しないでくださいね』
「……それはこっちの台詞だよ、リリア」
私は便箋を胸に当てた。離れていても、妹は私のことをよく分かっている。
朝食の席で手紙を見せると、フィオナが目を丸くした。
「可愛い字! 最後に『剣を三本とも磨いてね』って書いてある!」
「そこは読まなくていいよ!」
ノエルは森の話に目を留めた。
「足あとが違う、というのは形ですか。それとも数でしょうか」
「書いてないんだ。私も気になって」
セレスティーヌがそっと言う。
「ご家族が近くにいらっしゃると、余計に気がかりですね」
その声が優しくて、私はようやく自分が少し怖がっているのだと気づいた。
「うん。でも、まず返事を書く。心配ばかり伝えたら、リリアが意地になって森へ確かめに行きそうだから」
「ありそうね」とミレイユ。
「……否定できない」
皆が笑う。その温かさに背中を押されて、私は便箋を畳んだ。
昼休み、ルシアンにも手紙のことを話した。彼は押し花を見て、懐かしそうに目を細めた。
「フェルンヴァルトの丘にも咲く花だ。エミリアが昔、これで花冠を作っていた」
「リリアと一緒に、よく頭に乗せられたよね」
「君は花冠のまま剣の稽古を始めた」
「似合ってたでしょう?」
「もちろん。相手が気を取られるくらいには」
笑い合ったあと、私は三枚目の話を切り出した。
ルシアンはすぐに結論を言わなかった。窓の外で揺れる木の葉を見てから、静かに答える。
「学院の魔力灯の件もある。関連があるとは限らないけれど、事実を分けて考えよう」
「うん。リリアにも、足あとのことを詳しく聞いてみる」
「それがいい。家族に連絡するのは、心配を増やすためじゃない。確かめるためだ」
「君の妹は、きっと返事を待っているよ」
「うん。あの子、手紙を出すと毎日門番さんに聞くんだ。もう届きましたかって」
「エミリアも同じだ。僕が王都へ来たばかりのころ、返事が遅いと『兄さまは都会で迷子になりましたか』と書いてきた」
「ふふっ、エミリアらしい」
笑ってから、ふと気づく。ルシアンだって故郷を離れた三年間、私たちからの手紙を待っていたはずだ。彼は寂しかったとはほとんど書かなかった。
けれど今、押し花を見つめる横顔には、遠い丘を懐かしむ色があった。
「ねえ、ルシアン。今度は私がちゃんと書くね。リリアだけじゃなくて、エミリアにも」
「喜ぶと思う。……僕にも、たまには」
「学院で毎日会ってるのに?」
「文字でしか言えないこともあるから」
そう言って彼は少し笑った。なぜか私は、その笑顔から目を離すのが難しかった。
その言葉で、胸の中に少しだけ道ができた。
その日の午後、私は訓練庭で木剣を握っていた。手紙の文字が頭から離れず、素振りの回数だけが増えていく。
「エレナ。剣先が上がってる」
声をかけたルシアンが、向かいの白線に立った。彼の手には練習用の短杖がある。
「一本だけ、相手をしてくれる?」
「一本で済むならね」
彼が杖を振ると、足元を撫でる風が砂を薄く巻き上げた。視界を奪うほどではない。私が踏み込む方向を読ませないための、ごく小さな目隠しだ。私は右へ誘うように肩を動かし、次の瞬間、左足を軸に回り込む。
木剣が杖の先に触れた。乾いた音が一つ。ルシアンは後ろへ引かず、風を斜めに流して私の袖を揺らした。
「近づくのが早すぎる」
「そっちこそ、逃げないんだね」
もう一歩踏み込もうとして、私は止まった。彼の背後に置かれた木箱には、訓練用の赤い布が結ばれている。守るべき荷物を置いて、勝手に追いかけるところだった。
「……今の、負けだ」
「勝負なら君の剣が届いていた。でも、護衛なら違う」
私は木剣を下ろした。故郷を心配する気持ちが、目の前の役割まで見えなくしていた。ルシアンはそのことを責めず、ただ箱の位置を指さした。
夕方、私は机に向かい、『リリアへ』と書き始めた。最初に書いたのは森のことではなく、学院の食堂で食べた蜂蜜菓子の話だった。
妹が読みながら笑ってくれる顔を、ちゃんと思い浮かべたかったから。




