第60話 祭りのあとに残るもの
昨日はあれほど賑やかだったのに、今朝は靴音まで大きく聞こえた。
窓の外では、雲がゆっくりと流れている。布の端を揺らす風に、乾いた薬草の香りがわずかに混じった。
私は入口に立って、何もない通路を見つめた。
昨日、木枠が傾いた場所には、先生が新しい固定具を取り付けていた。
あの瞬間を思い出すと、胸の奥がまだ少し冷たくなる。間に合わなかったらどうなっていたか。
考え始めれば、いくらでも怖い想像ができた。
「エレナ?」
振り向くと、セレスティーヌが立っていた。
「おはよう。体はどう?」
「少し疲れが残っています。でも、医務室の先生から休めば大丈夫だと言われました」
「今日は無理しないでね」
「はい。エレナ様も」
そう返されて、私は思わず笑った。守る側のつもりでいたけれど、私だって心配される一人なのだ。
公開祭が終わった翌朝、展示室は驚くほど静かだった。
昨日までの人いきれが嘘のように、窓から入る風が布を揺らしている。机の上には来場者が残した感想の紙が積まれていた。
『北の布があたたかかった』『薬草の匂いを初めて知った』『説明してくれたお姉さんが優しかった』。
「これ、私たちのことだよね」
フィオナが紙を一枚持ち上げる。
「きっとね」とノエル。
セレスティーヌは、少し疲れた顔で微笑んだ。昨日、《聖晶》を使ったあと、医務室で休み、先生から魔力の消耗を注意された。大きな怪我はなかったが、今日は無理をしないよう言われている。
「来てくれた人が楽しんでくださったなら、嬉しいです」
「あなたも、ちゃんと休んでね」とミレイユ。
「はい。今日は重いものを持ちません」
「それは私の仕事!」
私が胸を張ると、四人が笑った。
片づけを始める前に、担当の先生が訪れた。昨日の案内板は留め具の不具合と混雑が重なって倒れかけたと分かり、学院が管理手順を見直すという。
「皆さんの落ち着いた対応で、怪我人を出さずに済みました。ただし、危険な場面で無理をしないことも忘れないでください」
「はい」
私たちは声をそろえた。
先生が去ったあと、セレスティーヌが静かに言った。
「昨日、殿下に何を言われるかばかり考えていました。でも、目の前に危ない人がいて……それだけは、考えるより先に体が動いたんです」
「それでよかったと思う」とノエル。「でも、次は魔力が切れる前に誰かに頼ってください」
「はい。頼ることも、覚えます」
その返事が、少し前の彼女よりずっと力強かった。
片づけの途中、私たちは感想の紙を一枚ずつ読み返した。
「『紙の手触りが違って面白かった』ですって」とフィオナ。
「それはエレナの案ね」とミレイユ。
「本当? 嬉しい!」
ノエルは小さな文字を見つけた。
「『香りが苦手でも見学できてよかった』……説明を置いておいて正解でした」
セレスティーヌがほっとしたように息をつく。
「誰かが楽しめない展示にならなくてよかったです」
「あなたの案内のおかげよ」とミレイユ。
「皆さんのおかげです」
以前なら、その言葉は自分を小さくするためのものに聞こえたかもしれない。けれど今は、五人で作ったことを誇りに思う響きがあった。
公開祭が終わったあとの実技授業で、私たちは事故のときの動きを振り返った。
教官が用意したのは、転がる木球と倒れかける軽い木枠。敵を倒すのではなく、人を安全な場所へ通す課題だった。
「私が前に出る。ルシアン、出口を見て」
「分かった。アレクシスは後ろをお願い」
合図と同時に木球が転がった。私は木剣の腹で進路を変え、木枠の倒れる方向から離れる。ルシアンの風が床の紙片を持ち上げ、安全な側を知らせた。アレクシスは《金剛》で盾を強め、木枠の角を受け止める。
「ぐっ……重いな!」
「無理しないで! もう全員抜けたよ!」
私の声に、彼はすぐ盾を引いた。木枠が決められた場所に倒れ、乾いた音が響く。
「速かった。でも、合図が少し遅れたね」とルシアン。
「次は私が先に言う。……それと、セレスティーヌがいてくれたら、もっと安心だったかも」
「彼女の五秒を当てにしすぎないことも大事だよ」
私は頷いた。誰か一人の力を前提にしない。公開祭で学んだことは、剣の稽古にもつながっている。
汗を拭きながら見上げた学院の空は、祭りの日と同じように青かった。
最後の布を畳みながら、私は少し寂しくなった。準備は大変だったし、何度も失敗した。なのに終わってしまうと、もっと続けていたかった気がする。
「また何か一緒にやりたいね」
私が言うと、フィオナが真っ先に手を挙げた。
「次は雨漏りしない部屋で!」
「あと、机は勝手に動かさないこと」とミレイユ。
「それはもう覚えたよ!」
笑い声が空の展示室に広がった。
午後、ルシアンと一緒に最後の木枠を備品庫へ返しに行った。古い棚に箱を戻したとき、底の星印がまた目に入る。
「ねえ、ルシアン。これ、前に見た印と本当に似てるよね」
「そうだね。今度、寄贈目録をもう少し調べようか」
「公開祭も終わったし、時間はあるよね」
「ただし、無理に秘密を探す必要はないよ」
「分かってる。私は平穏が第一だから」
彼は笑った。
けれど、備品庫を出る直前、私は足を止めた。廊下の端にある魔力灯が、ほんの一瞬だけ不自然に揺らめいたのだ。風のない場所で、青白い光が細く歪む。
「ルシアン、今の見た?」
「……見た」
彼の声が低くなった。
近づいても、灯りはいつもどおりに戻っている。壊れた様子もない。けれど、私には魔力の流れが一拍だけ逆向きに触れたように感じられた。
「私の気のせいかな」
「二人とも同じものを見たなら、気のせいだけでは片づけにくい」
「先生に話す?」
「うん。事実だけ伝えよう。何が起きたかは、まだ分からないから」
私は頷いた。
廊下の窓の向こうには、秋の青空が広がっている。昨日の騒ぎが嘘のように穏やかだ。
学院生活は、思っていたよりずっと忙しい。それでも、友達と笑い合える日々を私は大切にしたい。
そのために必要なら、ほんの少しだけ、気になることにも向き合おう。
そう決めて歩き出した背後で、魔力灯がもう一度、ごく小さく明滅した。




