第59話 五秒だけの退路
王家の従者が持ってきたのは、公開祭当日の来賓経路の変更通知だった。
「フェリクス殿下は、こちらの廊下をご覧になります」
先生が受け取った紙を見て、私たちは顔を見合わせた。私たちの展示室の前を通るらしい。
「王族の方が来るなら、説明をきちんとしないと」とフィオナ。
セレスティーヌは頷いたが、顔色が少し白かった。
朝、制服の襟を整える手が少し震えていた。
剣術の試験ではこんなことはないのに、今日は見知らぬ人へ説明をするだけで胸が落ち着かない。
「エレナ、深呼吸」とミレイユ。
「してるよ」
「肩が上がったままよ」
私は言われたとおり息を吐いた。フィオナが受付用の紙を揃え、ノエルは香りの瓶の蓋を確認する。
セレスティーヌは案内札を一つずつ指でなぞっていた。
「皆さん、今日はよろしくお願いします」
「こちらこそ!」
五人で声を合わせると、不思議と緊張が半分になった。
最初のお客様は、小さな女の子とその母親だった。女の子は厚手の布に触れて目を輝かせる。
「ふわふわ!」
「北の寒い土地で使われる布なんだよ」と私。
「雪が降るの?」
「うん。窓の外が真っ白になるくらい」
故郷の冬を思い出しながら話すと、女の子は何度も頷いた。私の説明でも誰かに伝わるのだと分かって、胸が軽くなった。
公開祭当日、学院は普段とは別の場所のように賑わった。家族連れの笑い声、磨いた靴の音、廊下に飾られた花の香り。私たちの展示にも、思った以上に人が集まっていた。
「この布、触ってもいい?」
「もちろんです。こちらは王国北部で織られたものです」
ミレイユが説明する隣で、ノエルは薬草の香りを案内し、フィオナは小さな子どもに素材の産地を教えていた。
セレスティーヌも落ち着いた声で来場者を迎えている。私は入口で人の流れを見ながら、少し誇らしい気持ちになった。
少し前から、セレスティーヌは廊下の時計を気にしていた。来賓の案内予定が近づいているのだ。
「私、受付を代わろうか」と声をかける。
「ありがとうございます。でも、決められた時間まではこちらを担当します」
彼女はきっぱり言ったあと、困ったように笑った。
「怖くないわけではありません。でも、ここは私たち五人で作った場所ですから」
その言葉に、私は何も言えなくなった。守ってあげたい、と思うのは簡単だ。でも彼女自身が守りたいものを、私が勝手に奪ってはいけない。
廊下の先で靴音が重なり、空気がざわめく。私は入口の通路幅を確かめた。今朝、皆で何度も確認した場所だ。ここに来る人たちが安全に歩けるように――それだけを考えよう、と自分に言い聞かせた。
ところが、昼過ぎに空気が変わった。
「そこを空けろ。殿下がお通りになる」
従者の声に人々が左右へ寄る。フェリクス殿下とイザベラ様が、数人の取り巻きを連れて現れた。
「セレスティーヌ。ここで何をしている」
「学院の共同展示を担当しております」
「婚約者がこんな雑務を? 俺の案内より優先するつもりか」
彼女の肩が小さく揺れた。
「殿下のご案内については、学院から指定された時間に――」
「口答えするな」
私は喉の奥が熱くなるのを感じた。けれど、今ここで怒鳴れば、展示を見に来た人たちまで巻き込んでしまう。
そのとき、取り巻きの一人が後ろへ下がり、仮設の案内板にぶつかった。雨の日に移動させた、細長い木枠だ。
「あっ」
留め具が外れ、板が傾く。すぐ後ろには、小さな子どもを連れた来場者がいた。
私は駆け出した。間に合う――と思ったが、足元には人が多い。強引に抜ければ誰かを押してしまう。
「下がってください!」
セレスティーヌの声が響いた。
淡い銀白の光が、子どもの前に小さな盾を作る。《聖晶》だ。板の角が盾に触れ、乾いた音を立てる。大きな板を完全に止められるほどの力はない。それでも、角度がわずかに変わった。
事故が起きる数日前、セレスティーヌの《聖晶》を使った短い防衛訓練をしていた。
「五秒しか持たないなら、五秒で何をするか決めよう」
ルシアンが砂時計を置く。アレクシスは盾を構え、私は木剣で模擬敵の進路を塞ぐ役になった。
合図と同時に木剣が打ち込まれる。私は剣先を斜めに滑らせ、相手の力を横へ流した。アレクシスは《金剛》で盾を強めたが、衝撃を受けて肩を揺らした。
「後ろへ下がって!」
セレスティーヌが叫ぶ。淡い銀白の結晶が、私たちと人形の間に小さな壁を作った。
一、二、三。私は敵役の木剣を抑えながら、ルシアンの風が示す退路へ移る。四。アレクシスが盾を引く。五。結晶が砕けるように消えた。
「全員、線の外です」とノエル。
セレスティーヌは膝に手をつき、浅く息をした。
「……もう一度、できるでしょうか」
「今日はここまで」とルシアンが首を振る。「五秒守れたことより、無理をしなかったことを覚えておこう」
私は彼女の手に水筒を渡した。短い時間でも、誰かが逃げる道を作れる。そのことを、私たちは確かに知っていた。
「こちらへ!」
私はその隙に親子を横へ誘導した。ルシアンが反対側から木枠を支え、アレクシスが倒れ込む脚を押さえる。
時間にすれば、ほんの数呼吸だった。
けれど私には、すべてがひどくゆっくり見えた。木枠の脚が床を擦る音。母親が子どもの肩を抱く手。ルシアンが板の重心を見極めて手を伸ばす瞬間。
私は自分の足元を見た。走り込む角度を一つ間違えれば、避けようとした人にぶつかる。強い力を出せばよいわけではない。何度も練習してきたはずの判断を、こんなところで試されるとは思わなかった。
「こっちです、ゆっくり!」
親子を壁際の空いた場所へ導くと、女の子は泣きそうな顔で私の袖を掴んだ。
「お姉ちゃん、あの光……」
「守ってくれたんだよ。もう大丈夫」
私が言うと、女の子は小さく頷いた。
振り返った先で、セレスティーヌの膝がわずかに折れる。私は駆け寄りたい衝動を抑え、まず通路に危険が残っていないか確かめた。彼女が作った時間を無駄にしないためにも、最後まで落ち着かなければならない。
銀白の盾は、五秒もたたずに砕けて消えた。
「セレスティーヌ!」
彼女は壁に手をつき、荒く息をしていた。額には汗が浮かんでいる。
「大丈夫、です……あの子は?」
「無事だよ。あなたのおかげで」
私が答えると、彼女はようやく目を閉じた。
周囲では先生方が人の流れを整理し、倒れかけた板の固定を確認している。事故は大きくならずに済んだ。でも、セレスティーヌの指はまだ震えていた。
「勝手な魔法の使用を――」
フェリクス殿下が何か言いかけたところで、担当の先生が進み出た。
「殿下。緊急時の安全確保については、学院が事実を確認いたします。まず負傷者の有無を調べさせてください」
静かな声だったが、誰も遮らなかった。
私はセレスティーヌの隣にしゃがんだ。
「怖かった?」
「はい。とても」
「私も」
彼女は驚いたように私を見る。
「でも、あなたが退く時間を作ってくれたから、みんな動けた」
「……守れた、のでしょうか」
「守れたよ。ちゃんと」
セレスティーヌの目に涙がにじむ。彼女はそれを拭わず、小さく頷いた。
誰かの命令ではなく、自分で選んだ五秒だった。




