第57話 雨の日の予定変更
夜明け前、窓を打つ音で目が覚めた。故郷では雨が降ると、森の匂いが濃くなる。
けれど王都の雨は石畳を濡らし、遠くの馬車の音を柔らかくしていた。
寝台の上でしばらく耳を澄ませる。リリアなら、こんな日は長靴を履いて水たまりへ飛び込むだろう。母に叱られても、きっと笑っている。
私は枕元の手紙を一度だけ見て、制服に着替えた。公開祭まであと三日。準備は順調だと思っていた。
食堂では、フィオナが天気を気にして窓を見ていた。
「この雨、街道にも影響が出るかもしれないわ」
「荷物が遅れる?」
「ええ。馬車が滑るから、無理に走らせられないもの」
私は自分が走れば早いのに、と考えかけて、すぐに首を振った。商会の荷物は私一人が抱えられる大きさとは限らない。そもそも安全が第一だ。
公開祭の三日前、朝から雨が降り続いた。
最初は窓を叩く細い音だったのに、昼には屋根を鳴らす激しい雨になった。展示室の窓辺に置いていた布見本を慌てて移動させる。
「外の回廊を通る予定だった来場者の経路が変更になるそうよ」
ミレイユが先生から受け取った紙を広げた。
「えっ。うちの展示室、通り道から外れちゃう?」
「それだけじゃないの」とフィオナ。「雨で運搬車が遅れて、追加の木枠も届かないって」
私は反射的に言った。
「じゃあ、私が走って取ってくる!」
「どこへ?」
「……倉庫?」
「ないから注文したのよ」とミレイユ。
また考えるより先に口が動いてしまった。私は唇を結ぶ。
さらに悪いことに、展示室の奥の壁から雨水が滲み、床の一部が滑りやすくなっていた。管理係の先生が来て、危険な場所には近づかないよう指示する。
「壁の補修が終わるまで、この一角は使えません」
設計図の三分の一が使えなくなった。
「どうしよう……」
セレスティーヌが濡れた床を見つめる。彼女の手元には、昨夜書き終えた案内札があった。
「まず、安全を優先しよう」
私はゆっくり言った。以前なら、自分が魔法で何とかできないかと考えただろう。でも、水の近くで不用意に魔法を使うのは危険だし、そもそも建物の修繕は私たちの仕事ではない。
「先生に使用できる範囲を確認して、それから配置を考え直そう」
ミレイユが私を見た。
「……今日は先に相談してくれたわね」
「成長したでしょう?」
「ええ。少しだけ」
厳しい評価に笑ってしまう。
先生が立入禁止の印をつけた場所は、思っていたより広かった。濡れた壁の近くに手を伸ばすと、冷たい湿気が指先にまとわりつく。
「ここは通らないでください」と担当の先生。「補修係が確認するまで、触らないように」
「分かりました」
私は足を止めた。魔法で乾かせば早いかもしれない。水を動かすことなら得意だ。でも、壁の内部がどうなっているか分からないのに力を使えば、かえって傷める可能性がある。
祖母はよく言っていた。できることと、してよいことは違う、と。
「私たちにできるのは、濡れない場所へ物を移すことだね」
雨が弱まった翌朝、私たちは屋根のある訓練場で足場の悪い場所を通る稽古をした。
「展示室の床は滑るんだろう? なら、滑る前提で動く練習だ」
アレクシスが濡らした木板を指さす。教官の許可を得て、危険のない範囲だけを使っていた。
私は木剣を握り、いつものように踏み込もうとして止まった。足の裏がわずかに滑る。ルシアンは風で水滴を吹き飛ばそうとせず、木板の外側に置いた旗を揺らして安全な通路を示した。
「大股だと転ぶよ。半歩ずつ」
「分かってる……うわっ!」
模擬敵の木剣を受けた途端、靴底がずれた。私は剣を強く打ち返す代わりに角度を変え、膝を曲げて重心を落とした。アレクシスが《金剛》の盾を短く使って横の一撃を受ける。
「衝撃は来る。だから、踏ん張りすぎるな」
彼の言葉どおりに体を逃がすと、ようやく足が止まった。
「雨の日は、強く動けばいいわけじゃないんだね」
「そう。展示室でも同じ。危ない場所には入らず、使える道を選ぶ」
ルシアンの声に頷きながら、私は昨日の濡れた壁を思い出した。
「そうね」とミレイユ。「布の箱からお願い。紙は私が確認するわ」
セレスティーヌが案内札を胸に抱えた。
「書き直しが必要なら、今夜もう一度作ります」
「一人で全部やらないで」とノエル。「文字の下書きなら、私も手伝えます」
彼女は少し驚き、それから小さく頷いた。
「……お願いします」
雨音に負けないように声を掛け合い、私たちは箱を運んだ。慌ただしいのに、不思議と心細くはなかった。
けれど問題は簡単ではなかった。通路を広げれば展示が減る。展示を詰めれば人が滞る。紙に線を引いては消し、誰もが黙り込んだ。
そこへアレクシスが顔を出した。
「手伝えることはあるか?」
「あります」とノエル。「濡れた場所に誰も入らないよう、先生の指示どおり仕切りを置いてください」
「了解」
彼は大きな声で返事をしたが、金剛は使わなかった。
ルシアンは壁際を見て、眉を寄せる。
「補修が終わるまで、湿気の影響があるものは別室に移したほうがいい。特に紙と薬草は」
「じゃあ、私が運ぶ」と私。
「一緒に運ぼう」とセレスティーヌ。
私たちは頷き合った。
雨音は相変わらず激しい。計画どおりにいかないことばかりだ。でも、以前の私たちなら、一人で何とかしようとしていたかもしれない。
夜、寮へ戻る途中、セレスティーヌが小さく言った。
「間に合うでしょうか」
「分からない。でも、できることはあるよ」
「そうですね」
彼女は濡れた石畳の先を見つめた。
「私、明日は先生に、来場者の案内をどう変えるか相談してみます」
その声には、不安と同じくらい確かな意思があった。




