第55話 近すぎる気遣い
女子寮の共用廊下には、夜の静けさが降り始めていた。
面会できるのは一階の談話室までなので、私は寮母さんに声をかけ、階段を下りていった。
窓の向こうには細い月が浮かんでいる。昼間の作業で腕は疲れていないのに、頭だけが妙に重かった。机の配置を一つ決めるにも、考えることが山ほどある。
談話室の扉を開けると、ルシアンは暖炉から少し離れた椅子に座っていた。膝の上の資料を揃え、私に気づくとすぐ立ち上がる。
「こんな時間にごめん」
「まだ消灯前だよ。それに、来てくれて嬉しい」
言ってから、何だか言葉が足りない気がした。資料を持ってきてくれたことが嬉しいのか、彼に会えたことが嬉しいのか。両方なのだけれど、わざわざ分けて考える必要はないよね、と自分に言い聞かせた。
その日の夜、ルシアンが私の部屋の前まで資料を届けに来た。
「会場の安全確認について、ガルド先生に聞いてきた」
「ありがとう! ……え、これ全部?」
差し出された紙束は思ったより厚い。避難経路、展示物の固定方法、魔法を使う場合の注意事項。細かな字がぎっしり並んでいた。
「私が読む前に、もう全部まとめてくれたの?」
「必要そうなところに印をつけておいた」
嬉しい。とても助かる。けれど、胸のどこかに小さな引っかかりが残った。
「ルシアン、私の仕事までやってない?」
彼は少し驚いた顔をした。
「そんなつもりはなかったよ。忙しそうだったから」
「うん。助かるんだけど……私も考えたい」
言いながら、自分でもわがままだと思った。昼間はミレイユに、勝手に動かないでと言われたばかりなのに。
「ごめん。変な言い方をした」
「いや、僕のほうこそ」
ルシアンは紙束を持ち直した。
「昔から、エレナが困る前に何とかしたいと思ってしまうんだ」
「私、そんなに頼りない?」
「逆だよ」
即答だった。
「君は困っている人を見つけると、自分が疲れていても動いてしまう。だから、少しでも余裕を残してほしい」
その声が真剣で、私は返す言葉を失った。
故郷で魔狼から村人を守った日のことを思い出す。あのときも彼は、私が雷を使ったあと、何も言わずに水を持ってきてくれた。私が平気だと言い張っても、最後まで隣にいた。
「……私、あのときから変わってないかな」
「変わったよ。今は一人で抱えないようにしている」
「今日も机を勝手に動かして怒られたけど」
「それは、まだ練習中だね」
思わず二人で笑った。
私たちは談話室の端に腰掛け、資料の最初の一枚を広げた。暖炉の火が時折ぱちりと鳴る。
「この『避難動線』って、私たちが考えた通路と同じこと?」
「似ているけど、普段の流れだけじゃない。急に皆が出口へ向かう場合も考えるんだ」
「じゃあ、入口を広くしただけじゃ足りないね」
「うん。立ち止まる人と、外へ出る人がぶつからないように」
ルシアンと話し合う少し前、私たちは実技授業で組んでいた。
相手はアレクシス。木剣と盾を持ち、私たち二人の連携を試す役だ。
「エレナ、右へ二歩。次に左から回って」
ルシアンの指示に従えば、確かに安全だった。彼の風が砂を払い、私はアレクシスの盾の外側へ回る。けれど三度目の指示が飛んだとき、私の足は止まった。
「そこ、私にも見えてるよ」
「でも、今は――」
言い終わる前にアレクシスが踏み込んだ。私は木剣を返して盾を打ち、彼の重心が移った瞬間に距離を取る。アレクシスは《金剛》を解き、肩を回した。
「お前たち、互いのことを見すぎて俺を忘れてないか?」
図星だった。私は息を整え、ルシアンを見た。
「次は、私が考えた動きを先に言うね。危なかったら止めて」
「……分かった」
二度目は、私が正面で木剣を受け、ルシアンが風で横の通路を確保した。指示は少なく、合図は短い。それでも、さっきより息が合った。
「任せるって、何もしないことじゃないんだな」とアレクシスが笑う。
私も頷いた。心配してくれるのは嬉しい。でも、信じてもらえるのはもっと嬉しい。
説明を聞きながら、私は自分で赤い線を引いた。ルシアンは口を挟まず、私が悩むのを待っている。さっき約束したばかりのことを、もう守ろうとしてくれているのが分かった。
「ここに机を置かないほうがいいかな」
「どうしてそう思う?」
「曲がるときに視界が遮られるから。剣の試合でも、見えない角度は危ないんだ」
「いい判断だと思う」
胸の中に小さな灯がともったような気がした。教えてもらうだけではなく、私の考えを聞いてもらえる。彼と話していると、昔からそれが自然にできた。
「ルシアンも、困ったら私に頼ってね」
「……僕が?」
「うん。私だけ守られるのは不公平でしょ」
彼はしばらく黙り、やがて穏やかに笑った。
「分かった。覚えておく」
その返事が、どんな励ましの言葉より嬉しかった。
廊下の窓の向こうでは、月が中庭の木々を照らしていた。遠くの寮から話し声が聞こえる。
「資料、全部読んでみる。それで分からないところを聞いてもいい?」
「もちろん」
「じゃあ、今度は私が頼むまで、先回りしすぎないでね」
「努力する」
「即答で『できる』じゃないんだ」
「できない約束はしたくないから」
彼らしい返事だった。胸の引っかかりが、少しずつほどけていく。
「ルシアン」
「何?」
「気にかけてくれて、ありがとう」
彼は一瞬だけ目を逸らし、「どういたしまして」と答えた。
その横顔がなぜかいつもより大人びて見えて、私は紙束を抱え直した。
資料の重さが、急に意識に戻ってきた。




