第54話 古い星印と新しい疑問
学院の古い建物は、午後になると廊下の空気がひんやりする。
石壁には何度も塗り直した跡があり、窓枠の角だけが長年の手入れで丸くなっていた。
「こっちで合ってる?」
「次の角を左よ」とフィオナが答える。
「さっきも左って言わなかった?」
「エレナ、あなたが右へ曲がったからよ」
ミレイユに指摘され、私は口をつぐんだ。学院の道順は、剣の型よりずっと覚えにくい。
セレスティーヌがくすりと笑い、ノエルは持参した紐を確かめている。長い木枠を運ぶなら、束ねるための紐が要るのだそうだ。私は抱えて帰れば済むと思っていたけれど、通路を塞がずに運ぶ方法まで考えている彼女に感心した。
備品庫の前には、古い真鍮の札が掛かっていた。何度も磨かれた文字は一部が薄れ、学院が今よりずっと長くここにあることを思わせた。
展示用の木枠を借りるため、私たちは学院の備品庫へ向かった。
古い扉を開けると、乾いた木と油の匂いが鼻をくすぐった。高い棚には箱が積まれ、窓から差し込む細い光の中を埃が漂っている。
「必要なものだけ持ち出して、番号を控えること」
管理係の先生に念を押され、フィオナが台帳を開いた。
「木枠が六つ。支柱が四本。布を留める金具が……」
「この箱かな?」
私は棚の下段から小箱を引き出した。底に古い焼き印がある。輪の中に小さな星が描かれた、不思議な形。
以前、訓練用具の倉庫で見た刻印とよく似ていた。
「ルシアン、これ」
近くで帳簿を手伝っていた彼が顔を寄せる。
「確かに似ているね。でも同じ印かどうかは、細部を比べないと」
「学院の古い備品の印なのかな」
「その可能性はある。古い商会の刻印かもしれないし、職人の組合印かもしれない」
ルシアンはすぐに結論を出さなかった。私も、妙な印を見つけただけで大騒ぎするのは違うと思う。
「この木枠、まだ使える?」
ノエルが箱の中を覗いた。
「金具は少し錆びています。でも、枠はしっかりしてそう」
「先生に確認してからにしましょう」とセレスティーヌ。
管理係の先生は印を見て、少し首を傾げた。
「古い備品の中には、学院創設以前の寄贈品も混じっている。出所を調べるなら図書室の寄贈目録だな。ただし、持ち出し記録は残してくれ」
それ以上のことは分からなかった。
帰り道、私は木枠を抱えながら尋ねた。
「ルシアンは気になる?」
「少しね。でも、今は展示の準備が先だよ」
「そうだよね。星の印があったからって、何か起きるわけじゃないし」
口にした途端、自分でも妙な言い方だと思った。
「エレナは何か起きてほしいの?」
古い星印のことが頭から離れないまま、私は実技授業に出た。
その日の課題は、印をつけた三つの標的から、指定された一つだけを打つこと。どれも同じ形で、目印の位置だけがわずかに違う。
「よく見てから動いて」とルシアンが言った。
「分かってる。……たぶん」
開始の笛が鳴る。私は最初の標的へ駆けたが、剣を振る直前に踏みとどまった。目印が違う。背後から木剣を持った敵役が近づく。
私は体をひねって攻撃を流し、相手の手元を軽く打って距離を取った。ルシアンの風が標的の布を裏返し、隠れていた印を見せる。
「右から二つ目!」
「見えた!」
剣先が指定の印のすぐ下に触れた。勝ったというより、間違えずに済んだ安堵が大きい。
「速さだけなら最初の方が速かったね」とルシアン。
「でも、間違ったら意味がない」
彼は頷いた。「古い箱の印も同じ。似ているからといって、同じものとは限らない」
私は木剣を下ろした。気になることがあっても、確かめる順番を飛ばしてはいけない。
「まさか! 私は平穏が好きなの!」
「知ってる」
ルシアンは微笑んだ。知っていると言いながら、その目が少し楽しそうなのはなぜだろう。
図書室の奥には、普段の授業で使う本とは別に、寄贈記録や古い学院年報が置かれていた。紙は黄ばんでいるのに、表紙の革は丁寧に補修されている。
「これ、何十年も前のものだね」
「そうだね。でも古いというだけで特別な意味があるとは限らない」
ルシアンは静かにページを繰った。隣の机でセレスティーヌが寄贈年を読み上げ、フィオナが商会名を控える。
「同じような星の印、別の地方の組合でも使うそうよ」とフィオナ。「星は目印にしやすいから」
「じゃあ、珍しくないのかな」と私は肩を落とした。
「珍しいかどうかを調べるのも、調査の一部だよ」とルシアン。
私は彼の横顔を見た。何かを知っているふうに振る舞わないところが、昔から好きだ。私が思いつきで結論を出しそうになると、彼は必ず別の可能性を置いてくれる。
紙に写した輪の線は、思ったより複雑だった。外側の円の一部が欠け、星の一角だけが長く伸びている。倉庫で見た印と本当に同じか、記憶だけでは確かめられない。
「今度、前の印も写してみよう」と私が言うと、ルシアンは頷いた。
「許可を取ってね」
「もちろん!」
即答したら、彼に少し疑わしそうな顔をされた。失礼だと思う。……でも、先に見に行こうと考えていたのは確かだった。
放課後、私たちは図書室の目録を少しだけ調べた。古い寄贈品には番号が振られていたが、箱の印だけでは持ち主を特定できない。
「これ以上は時間がかかりそうね」とミレイユ。「公開祭が終わってからでもいいでしょう」
私は頷き、見つけた印の形だけを紙に写した。
ただの古い印。今はそれで十分だ。
けれど、書き写した星の輪郭を見つめていると、なぜか北の山々を思い出した。
故郷の朝、遠くに見えるグラウス山脈の稜線。
似ているものは何もないはずなのに。
「エレナ?」
「ううん。何でもない」
紙を閉じると、図書室の静けさが戻ってきた。




