第51話 廊下の向こうの王子
朝の廊下は、磨かれた石床に窓の光が反射して眩しかった。
その声を聞く少し前まで、私たちは今朝の焼き菓子の話をしていた。
「蜂蜜が多すぎると思いませんでした?」
「私は好きだったよ。リリアなら三つは食べるな」
そんな他愛ない会話の途中で、セレスティーヌの歩幅が止まったのだ。
窓の外には、庭師が刈り込んだ生け垣が並んでいる。秋の朝は空気が澄み、いつもなら遠くの鐘楼までくっきり見える。それなのに、今は目の前の数歩がひどく遠かった。
フェリクス殿下の後ろに立つ生徒たちが、私たちを避けるように壁際へ寄る。誰も話していないのに、視線だけが集まるのが分かった。
私は剣を腰に下げていない。それでよかった、と頭の隅で思った。学院の廊下で必要なのは、相手を倒すことではなく、友達が一人で立たなくて済む場所を作ることなのだから。
「セレスティーヌ。少し話がある」
フェリクス殿下の声が落ちた瞬間、彼女の指先が制服の裾を握った。隣にはイザベラ様。白い花を模した胸飾りが、朝日を受けて冷たく光っている。
「おはようございます、殿下」
セレスティーヌは頭を下げた。昨日、私たちと話していたときには柔らかく伸びていた背筋が、今は少しだけ固い。
「来月の学院公開祭についてだ。王家の来賓を迎える役目がある。婚約者なら、俺に恥をかかせないようにしろ」
「承知しております。学院側の正式な案内が届きましたら――」
「また手続きの話か」
殿下は鼻で笑った。
「以前の茶会でもそうだったな。何もかも他人に決めてもらうつもりか?」
私は思わず一歩進みかけた。けれど、セレスティーヌが小さく首を振ったのが見えた。私に向けた合図かどうかは分からない。でも、その場を剣術の試合に変えてはいけないことだけは分かった。
「殿下」
セレスティーヌが息を吸った。
「公開祭の役目は、学院の先生方と確認して、責任をもって務めます。ご心配をおかけしないようにいたします」
「ならいい」
イザベラ様が一歩前へ出た。
「セレスティーヌ様、よろしければ私もお手伝いしますわ。大切な行事ですもの」
言葉だけなら親切だ。けれど彼女の目は、返答を試すように細められていた。
「ありがとうございます。必要なときは学院の担当者を通じてお願いいたします」
セレスティーヌはそう答えた。声はかすかに震えていたけれど、曖昧な約束はしなかった。
殿下たちが去ったあと、廊下の空気が一度に動き出した。遠くで生徒が笑い、授業開始を知らせる鐘が鳴る。
「大丈夫?」
私が尋ねると、彼女は少し考えてから言った。
「大丈夫、と言い切るのは難しいです。でも、さっきは自分の言葉でお返事できました」
「できてたよ。すごく」
「エレナ様が剣を抜きそうなお顔をしていたので、少し勇気が出ました」
「抜かないよ! 学院だもの」
「木剣なら?」と背後からルシアン。
その日の放課後、私は訓練場で木剣を握っていた。朝の廊下で動けなかった足を、何とか落ち着かせたかったのだ。
「相手が王子だから、剣では解決できない。それは分かってるんだけど」
「分かっているなら十分だよ。今日は、守る位置を考えよう」
ルシアンが床に白線を引いた。線の向こうには、護衛対象に見立てた木製の人形。アレクシスが模擬敵役を引き受ける。
「俺を倒す必要はない。人形に触れさせなければ勝ちだ」
開始の合図と同時に、アレクシスの木剣が低く走った。私は斬り込むふりをして剣先をずらし、彼の進路を半歩だけ塞ぐ。そこへルシアンが弱い風を送り、床の目印の布を翻した。私が視線を動かす間に、アレクシスは反対側へ回り込んでいた。
「わっ、そっち!」
追おうとして、足を止めた。追えば人形の前が空く。私は剣を引き、短く構え直す。木と木が触れ、乾いた音が響いた。
「今のはよかった」とアレクシス。「強い一撃より、通さない一歩だ」
ルシアンが白線を指さす。「朝も、セレスティーヌの隣に立っていた。それでよかったんだよ」
胸の奥に残っていた悔しさが、少しだけ別の形に変わった。私はもう一度、木剣を構えた。
「それも抜かない!」
彼が珍しく笑ったので、私も肩の力が抜けた。
授業が始まってからも、朝の光景が頭を離れなかった。教師の板書を写しながら、私はセレスティーヌの横顔を盗み見る。彼女は背筋を伸ばし、質問にも正確に答えていた。だからこそ、机の下で重ねた指先が白くなるほど力んでいることに気づいてしまう。
休み時間、ノエルが小さな包みを差し出した。
「気持ちを落ち着ける香りの茶葉です。飲むのは放課後にしてください。授業中、眠くなると困りますから」
「ありがとうございます」
「わたし、怒っています」とミレイユが低い声で言った。「あなたが悪いことをしたみたいに言われるのは、違うでしょう」
フィオナは周囲を一度見回してから、いつもより静かに答えた。
「だからって、今ここで殿下の悪口を広めたら、困るのはセレスティーヌだものね」
「分かっているわ。分かっているから腹が立つのよ」
私は二人のやり取りを聞きながら、正しいと思うことをどう伝えるかにも技術がいるのだと感じた。
「皆さん、ありがとうございます」
セレスティーヌがそう言って笑う。無理に明るく振る舞おうとする笑顔ではなかった。少なくとも、今この机を囲む私たちには、弱いところを見せてもいいと思ってくれたのかもしれない。
昼休み、私たちは五人で公開祭の掲示を見に行った。各学年が展示や実演を担当し、外部から保護者や職人を招くという。学院に入って初めての大きな行事だ。
「こういうの、楽しそう!」とフィオナ。「商会のお客さんも来るかもしれないわ」
「楽しそう、だけで済まないわよ」とミレイユ。「準備する側は地獄を見るの」
「経験者の言葉が重い……」
ノエルがくすりと笑う。セレスティーヌも、今度は本当に笑った。
掲示の下には、希望する展示案を提出するための用紙が置かれていた。私は紙を一枚手に取り、まだ白い欄を見つめる。
誰かに言われた役目を果たすだけではなく、自分たちで作る行事。
今朝の廊下で感じた息苦しさとは反対のものが、そこにはあった。
「私たち、何か一緒にやらない?」
口にした瞬間、四人の視線が集まった。
平穏な学院生活のために目立たないと決めていたはずなのに、私はまた自分から面倒ごとに近づいている気がした。




