第43話 礼儀という名の刃
「北方の魔物の出現数が、例年より増えているそうよ」
ヴィクトリア様の言葉に、私は背筋を伸ばした。
「リーヴェルでも、ですか」
「報告の中心はノルディア周辺。ただし、白銀の森の巡回記録にも変化があると聞いているわ。詳しい調査はまだ途中よ」
胸の奥が冷えた。父様たちなら大丈夫、とすぐに思った。けれど、領民まで皆無事だと決めつけていい理由にはならない。
「この情報を私たちに?」
私はヴィクトリア様の言葉を頭の中で並べ直した。魔物が増えている。それは事実らしい。けれど、何が原因で、どこまで危険なのかはまだ分からない。
祖父様なら地図に印をつけ、父様なら巡回隊の人数を確認するだろう。私はただ、白銀の森の木漏れ日を思い出していた。
あの森では、幼いころリリアと木の実を拾った。ルシアンと競走したこともある。森の奥には危険な場所もあったけれど、家族と領民の暮らしを支える大切な場所だった。
数字の向こうにあるものを考えると、胸が苦しくなった。
セレスティーヌの問いに、ヴィクトリア様は頷く。
「怖がらせたいわけではないの。学院では北方出身の生徒もいるでしょう。噂が広がる前に、正確なことと分からないことを区別してほしいのよ」
そのとき、温室の扉が開いた。
「まあ、ずいぶん賑やかなお茶会ですこと」
現れたのはイザベラ・ヴァイスベルクだった。整った笑顔と、白い花を模した胸飾り。私たちの顔を一巡した視線が、セレスティーヌでわずかに止まる。
「第二王子殿下の婚約者ともあろう方が、ずいぶん気楽にお過ごしなのですね」
セレスティーヌの指が膝の上で強張った。
ヴィクトリア様は席を立ち、礼儀正しく微笑んだ。
「イザベラ様。今日は私がお招きしたお客様です。ご用件は?」
「母からのお届け物を。まさかお邪魔するとは思いませんでしたわ」
言葉は丁寧なのに、部屋の温度が下がったように感じる。私は剣を持っていない自分の手を見た。
こんなとき剣など役に立たないし、役立ててはいけない。
「皆様のご歓談を妨げるつもりはございません。ただ、王家に近い方々には、ふさわしい交友関係というものがございますでしょう?」
イザベラはそう言って、またセレスティーヌを見た。
私は立ち上がりかけたが、ミレイユがテーブルの下でそっと袖を引く。ここは訓練場ではない。相手が踏み込んできたからといって、同じように踏み返してはいけないのだ。
セレスティーヌがゆっくり顔を上げた。
「私はこちらに、ヴィクトリア様から正式にお招きいただきました。ご心配には及びません」
声は細い。それでも、自分の言葉だった。
ヴィクトリア様が静かに続ける。
「私の客人を評価するのは、私の役目でもありません。皆さんが安心して過ごせる席にしたいだけです」
イザベラの笑みが一瞬だけ固まった。
「失礼いたしました。では、お届け物だけ」
去り際、彼女は私に視線を寄越した。
「辺境の方は、率直でいらっしゃると伺っています。どうぞ王都の作法も大切になさって」
私は思わず口を開きかけた。だが、ヴィクトリア様の教えを思い出して深く一礼する。
「ご忠告、ありがとうございます」
口の中には、別の言葉がいくつも浮かんでいた。辺境にも作法はあります、と言いたかった。セレスティーヌは何も間違っていません、とも。
けれど、ここで私が声を荒らげれば、相手はきっとセレスティーヌを「騒ぎの中心」に仕立てる。
ヴィクトリア様がかつて教えてくださったのは、礼儀とは相手に屈するためのものではない、ということだった。自分と大切な人の立場を守るための技術でもある。
私は深く息を吸い、指先の力を抜いた。木剣を握るときより難しい動作だった。
扉が閉まると、ようやく息ができた。
「今のは、何だったの?」
私が呟くと、フィオナは困ったように肩をすくめる。
「言葉で殴る練習をしてきた人、というところかしら」
ヴィクトリア様は否定せず、セレスティーヌのほうを見た。
「よくご自分の言葉で答えられたわ」
セレスティーヌはカップを両手で包んだ。
「本当は、とても怖かったです」
「怖くても言えたのなら、それは勇気よ」
私はその言葉を心の中で繰り返した。勇気には、剣を抜かない形もあるのだ。




