第42話 温室の午後と公爵令嬢の微笑
ローゼンベルク公爵家の王都別邸は、門をくぐった途端に空気が変わる場所だった。
石畳の両側には白い花が整然と咲き、手入れの行き届いた庭木が柔らかな影を落としている。
「花の向きまで揃っているみたい」
私が呟くと、フィオナが小声で返した。
「庭師さんの腕がいいのよ。あと、たぶんお金も」
「フィオナ、声が大きいわ」
ミレイユが眉を寄せると、フィオナは悪びれずに笑った。
「だって本当でしょう? 珍しい苗木を遠方から運ぶだけでも費用がかかるもの」
「商会の娘らしい感想ですね」とノエル。
「ノエルなら、あの白い花の名前が分かる?」
「ええと……たぶん、香りを抑えて改良された品種です。温室の中でお茶の香りとぶつからないように」
私は二人の話に感心した。私にはただ綺麗に見える庭も、誰かにとっては仕事と知識の積み重ねなのだ。
剣の手入れを見て職人の腕が分かるのと、少し似ている。
ミレイユが咳払いをして、私たちは姿勢を正した。
温室の扉を開けたのはヴィクトリア様ご本人だった。
淡い青のドレスに、白い手袋。
どこから見ても非の打ちどころのない公爵令嬢なのに、私を見ると目尻を少し下げた。
「エレナ。学院ではお元気そうね」
「はい。お招きいただきありがとうございます」
「その挨拶は合格。肩の力を抜くことも覚えましょう」
懐かしい口調に、私は思わず笑ってしまった。
温室には柑橘の甘い香りが満ちていた。ガラス屋根の向こうを雲が流れ、銀のティーポットが小さな光を返している。ノエルは鉢植えの薬草に気付き、控えめに目を輝かせた。
「そちらは珍しい品種でしょうか」
「よく気付いたわね。南方から取り寄せたの。あとで温室係に説明させましょう」
ヴィクトリア様は誰の興味も見逃さない。ミレイユには布地の産地を、フィオナには商会の近況を尋ね、セレスティーヌには無理に婚約の話を振らなかった。
やがてお茶が二杯目になったころ、ヴィクトリア様が私に尋ねた。
「エレナ。王都の荷車の事故で、人を助けたそうね」
「えっ。もうご存じなんですか」
「クラウス殿下のもとに報告が届いているもの。あなたが先走りすぎたことも含めて」
「う……」
叱責を覚悟した私に、ヴィクトリア様は穏やかに続けた。
「勇気は美徳よ。でも、勇気と無謀を取り違えないこと。あなたには、助けたいと思った相手のその後まで考えられる人になってほしいの」
祖父も父も、似たようなことを言っていた。私はまだ、目の前の危険に飛び込むことばかり考えてしまう。
「はい。次はもっと周りを見ます」
「その返事も、前に聞いた気がするわ」
隣でミレイユが吹き出し、私も苦笑した。
セレスティーヌが静かにカップを置いた。
「ヴィクトリア様。私は、誰かを守れるようになりたいと思っています」
「素敵な願いね。何かきっかけがあったの?」
「友人たちが、私の魔法を必要だと言ってくれました」
彼女の声は小さかったが、震えてはいなかった。ヴィクトリア様は嬉しそうに微笑む。
「ならば、その言葉を大切にして。誰かの評価だけで、自分の価値を決めてはいけないわ」
その一瞬、セレスティーヌの瞳に浮かんだ光を私は忘れないだろう。
茶会が終わりに近づいたころ、ヴィクトリア様は給仕に合図をし、薄い封筒を卓上に置いた。
「ここからは少し、学院のお友達というより、王国の一員として聞いてほしいお話があるの」
さっきまで甘く感じていたお茶の香りが、急に遠くなった。
ヴィクトリア様は私たちを脅かすような方ではない。それでも、わざわざ言葉を選ばれたことが気にかかる。
「もちろん、皆さんに危険な役目を頼むつもりはないわ」
ヴィクトリア様は私の顔を見て、ほんの少し口元を緩めた。
「特にエレナ。聞き終える前に走り出さないこと」
「は、はい!」
ミレイユが小さく咳をして笑いをこらえる。
緊張がわずかにほどけたところで、ヴィクトリア様は封筒を開いた。
薄い紙の上には、北方の地名が整然と並んでいた。
そこに故郷の近くの名を見つけた瞬間、私は指先を膝の上で握りしめた。
温室の外で風が吹き、ガラスに木の葉の影が揺れた。




