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辺境子爵令嬢は平穏に暮らしたい ~剣と魔法の才能を隠して、普通の学院生活を送るはずでした~  作者: EA
第一部「王立学院編」

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第37話 止まらない荷車

 荷車は坂の途中で大きく傾いた。積まれていた木箱が一つ、縄の隙間からずり落ちる。


「右へ!」


 ルシアンの風が箱の落下方向をわずかに変えた。

 箱は石壁に当たり、角が砕ける。中から金具が散った。


 御者は馬をなだめようとしていたが、手綱が片方だけ張りつめている。

 馬の目は恐怖で見開かれ、足取りは乱れていた。


「車輪を止めたら馬が転ぶ」とルシアンが言う。「先に速度を落とす」


 私は頷き、坂の端に積まれた砂袋を見た。修繕工事の資材だ。

 あれを使えば、荷車の進路を少しずつ曲げられるかもしれない。


「アレクシス、砂袋を運べる?」

「任せろ!」


 彼は金剛を腕と肩にまとわせ、袋を抱えた。重さは魔法でも消えない。

 足を踏ん張るたび、石畳に靴底が擦れる。


 私は荷車の横へ回り込んだ。風が頬を切る。

 車輪の軸受けには深い亀裂が走り、今にも外れそうだった。


 これを剣で切り落とせば、車体が倒れる。

 水魔法で滑らせれば、坂道ではもっと危険になる。


「エレナ!」


 ミレイユの声。視線を向けると、路地から幼い子が一人飛び出していた。母親の呼ぶ声が重なる。


 幼い子は、落ちた赤い布を拾おうとしていた。

 ほんの数歩先に車輪が迫っている。私の目には、その距離がひどくゆっくりに見えた。


 足元の石畳は濡れている。無理に踏み込めば滑る。

 私は重心を低くし、路肩の乾いた石を蹴った。子どもの体は思ったより軽い。

 抱き寄せた瞬間、母親の叫びが耳を刺した。


「大丈夫、目を閉じて!」


 子どもは私の上着を強く握った。店の軒先へ転がり込むと、背後で木箱が砕ける音がした。

 肩に熱い痛みが走る。けれど、泣き声が聞こえたのでほっとした。


 泣けるなら、息はできている。


「お母さんがいるよ。もう大丈夫」


 震える小さな手を母親へ渡す。母親は何度も礼を言った。私は頷いたが、心はもう坂の上に戻っていた。


 誰かを助けられたからといって、危険が終わったわけではない。


 私は地面を蹴った。子どもを抱え、店の軒先へ飛び込む。肩に木箱の破片が当たり、鋭い痛みが走った。


「大丈夫?」


 子どもは泣きながら頷いた。私は母親へ引き渡し、すぐ坂を見上げた。


 荷車はまだ止まっていない。


 路面に散った金具が陽を反射し、小さな刃のように見えた。

 ノエルは避難した老人に膝をつき、呼吸を確かめている。

 ミレイユは店の扉を開け、人々を奥へ誘導した。


「皆さん、通りへ戻らないで! 窓から顔を出すのも危険です!」


 普段は服の色合わせを楽しそうに話す彼女の声が、今日は驚くほど通っていた。


 フィオナは近くの店主に衛兵への連絡を頼み、御者へ声を張り上げる。


「荷は何箱ですか! 固定はされていますか!」

「七つだ! いや、ひとつ落ちた!」


 彼女はすぐ私たちへ情報を伝えた。


「残り六箱。金具が多いから、落下に注意して!」


 私は仲間たちを見た。誰も同じことをしていない。

 だからこそ、あの荷車に対抗できるのかもしれない。

 私一人で全部を解決するより、ずっと確かな方法に思えた。


 セレスティーヌの銀白色の結晶が、散らばった金具の前に小さな壁を作った。

 飛んだ破片を一つ受け止めたところで、盾が砕ける。


「っ……!」

「無理しないで!」とノエル。

「はい。でも、もう一度だけ」


 彼女の声は震えていた。それでも逃げなかった。


 ルシアンが低く言う。


「このままでは曲がり角で横転する。あと十数歩で止めないと」


 私は息を吸った。誰か一人の力で解決しようとしてはいけない。

 先日の実技で学んだばかりだ。


「皆、次の角で合わせよう!」


 砂袋を積み上げたアレクシスが、大きく手を振った。


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