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辺境子爵令嬢は平穏に暮らしたい ~剣と魔法の才能を隠して、普通の学院生活を送るはずでした~  作者: EA
第一部「王立学院編」

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第35話 言葉にしない優しさ

 放課後の図書室は、雨の匂いがした。

 窓ガラスを細い雫が伝い、遠くの鐘の音が柔らかく響く。


 私は応用実技の記録を開いていたが、頭の中では職人街の徒弟のことが離れなかった。


「また同じ頁を読んでる」とルシアン。

「そんなに分かりやすい?」

「三回目だよ」


 雨音は規則正しく、書架のあいだから漂う古い紙の匂いに混じっていた。

 図書室の奥では数人の生徒が試験の準備をしている。

 私は筆を握り直したが、書こうとした言葉が見つからない。


「ルシアンは、誰かを助けようとして失敗したことある?」

「あるよ」

「本当に?」

「意外そうだね」

「だって、いつも先のことまで考えてるから」


 彼は小さく首を振った。


「考えたつもりで、相手の気持ちを聞かなかったことがある。

 正しいと思うことを伝えても、それが相手の望む助けとは限らない」


 私は雨粒の筋を目で追った。

 昔のルシアンは、転んだ私にすぐ手を貸してくれた。

 でも、私が一人で立とうとしたときには、隣で待ってくれたこともあった。


 彼は昔から、そういうところが上手だったのだろう。


「じゃあ、私は次からどうしたらいい?」

「まず聞いてみたらいい。困っていることは何かって」

「簡単そうで難しいね」

「剣を振るより?」

「ずっと」


 ルシアンが笑い、私もようやく笑えた。


 私は記録帳を閉じた。


「この前の店で、助けたかったのに、余計に相手を困らせたかもしれない」

「そうかもしれない。でも、フィオナが調べる道筋を示せたのは、君が立ち止まったからだ」

「ルシアンはいつも、うまく言葉にするね」

「いつもじゃないよ」


 彼の声が少しだけ低くなった。


「僕だって、言わなかったせいで伝わらないことがある」

「例えば?」


 ルシアンは答えず、雨の向こうを見た。長い沈黙に、私まで落ち着かなくなる。


「……君が危ない場所へ行くと、心配になる」

「うん。私もルシアンが危なかったら心配だよ」

「そういう意味だけじゃ――いや、今はいい」


 何だろう。三年前なら、言いかけたことを遠慮なく聞けたのに。

 今は彼の横顔を見るだけで、なぜか胸がざわつく。


 私は話題を変えるつもりで、職人街の地図を取り出した。


「フィオナが、あの荷車の道順を調べてくれたんだ。運河沿いの倉庫から市場へ運んでいたらしい」

「荷車?」

「金具を運んでいた荷車。店の前で、変な音がしたでしょう」


 ルシアンの目が鋭くなった。


「軸の音のこと?」

「覚えてたの?」

「君が足を止めたから」


 私たちは地図を広げた。

 旧運河倉庫から職人街へ続く道は、曲がり角が多く、坂もある。

 そこを重い荷で走れば、軸に負担がかかるはずだ。


「危ないなら、商会の人に知らせた方がいいね」

「うん。ただし、僕たちだけで調べに行かないこと」

「分かってるよ」

「本当に?」

「……なるべく」


 ルシアンは深いため息をついた。それでも、地図を畳む私の手元へそっとしおりを置いてくれた。

 そこには小さな青い花が押されている。


「読みかけの頁、忘れないように」


 青い花びらは薄く、しおりの紙越しに窓の光が透けた。北の森にも似た花が咲く。


 小さな頃、ルシアンと川辺を歩いたとき、私が名前を知らないと言うと、彼は図鑑で調べて翌日に教えてくれた。


「これ、あのときの花に似てる」

「覚えてた?」

「もちろん。花の名前は忘れたけど」

「……そこは変わらないね」


 彼の笑い方が少し柔らかくなった。


「今度こそ覚える。何て名前?」

「青鈴草。水辺に咲く小さな花だよ」

「青鈴草。よし、覚えた」


 何でもない会話なのに、胸の奥が温かい。

 三年間離れていたのに、こうして話すと、昨日も一緒にいたような気がする。

 けれど、目が合うと昔とは違う落ち着かなさが生まれる。


 その理由を考えかけて、私は慌てて記録帳を開いた。


 頁の端にしおりを挟む。花が折れないように、いつもよりゆっくりと。


 私は花を見つめた。

 剣の手入れには役立たない。でも、捨てられないと思った。


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