第32話 銀鈴広場の甘い誘惑
休日の王都は、学院の廊下とは違う音で満ちていた。
呼び込みの声、石畳を踏む靴音、焼きたてのパンの香り。
銀鈴広場の噴水には陽光が跳ね、子どもたちが水しぶきを避けながら駆け回っている。
「まず甘いもの!」
「剣じゃないんだな」とアレクシスが笑う。
「リリアとの約束は大事なの」
「その割に、店先の短剣を三回見てたよ」とルシアン。
数えていたのか。私は咳払いでごまかした。
店先には薄い飴色の焼き菓子が山のように積まれ、窓辺には木の実を散らした小さなタルトが並んでいた。甘い匂いにつられ、私は思わず鼻を近づける。
「お嬢さん、焼きたてだよ。ひとつ試してみるかい?」
店主のおばさんが小さな欠片を差し出した。口に含むと、香ばしい木の実のあとから蜂蜜の甘さが広がる。
「おいしい!」
「そんなに目を輝かせるなら、リリアさんの分とは別に自分の分も買わないと」とノエル。
「もちろん買うよ。みんなの分も!」
「まず予算を確認しなさい」とミレイユが即座に言う。
私は財布を開き、硬貨を指で数えた。砥石の値段を引き、帰りの軽食代を残して――あれ、思ったより余裕がない。
「計算、手伝おうか」
横からルシアンがのぞき込んだ。
「大丈夫。自分でできる」
「うん。じゃあ、僕は隣で待ってる」
急かさず待ってくれるところが、昔から彼らしい。私は最後の硬貨を数え直し、胸を張った。
「決めた。木の実入りを二箱と、みんなで食べる小袋を一つ!」
「砥石は?」
「……安いのを探す」
背後でアレクシスが豪快に笑った。
ミレイユは菓子店の包装紙を見て、すぐに職人の名前を当てた。
フィオナは店主と仕入れの話を始め、ノエルは蜂蜜の種類に目を輝かせる。
皆がそれぞれの得意なことを持っている。
剣の話しかできない私とは大違いだ。
「エレナさんは、どれがお好き?」
セレスティーヌが焼き菓子の棚の前で尋ねた。
「木の実入りかな。リリアは甘ければ何でも喜ぶけど」
「妹さん、可愛らしいのね」
「可愛いよ。先週は庭の丸太を素手で運ぼうとして、父さまに止められてた」
全員が黙った。
「……可愛い、の定義を考え直す必要があるわ」とミレイユ。
私たちは笑いながら包みを選んだ。セレスティーヌも、口元を手で隠さずに笑っていた。その姿を見ると、胸の中が明るくなる。
噴水の縁では小さな女の子が、母親に手を引かれて歩いていた。少し先で大道芸人が色布を空へ投げると、子どもたちが歓声を上げる。
北方の村の祭りとは違う賑やかさだけれど、不思議と懐かしかった。
「エレナさんは、こういう休日をよく過ごされていたの?」
セレスティーヌが尋ねる。
「実家では、村のお祭りくらいかな。家族と森へ行くことのほうが多かった」
「森へ? 散策?」
「散策もしたよ。ついでに剣の稽古をして、魔物が出たら――」
私は慌てて口をつぐんだ。
「……帰ったり、ね」
「今、何か省略したわね」とミレイユ。
「気のせいだよ」
セレスティーヌがくすりと笑った。
少し前まで、人前で笑うことさえためらっていた彼女が、今は私の言い間違いを楽しんでいる。
その変化が嬉しくて、私はごまかすのをやめて一緒に笑った。
広場の端で、楽師が古い王国の歌を奏でていた。ルシアンが私の歩幅に合わせて隣へ来る。
「疲れてない?」
「全然。ルシアンこそ、皆の荷物を持ちすぎじゃない?」
「僕はまだ平気。君の分は軽いし」
私の買った焼き菓子を、彼は大事そうに抱えていた。何だか不思議で、少しだけくすぐったい。
「そうだ、ルシアンにも一つあげる」
「リリアへのお土産じゃないの?」
「一箱多く買ったから。三年ぶりに一緒に王都を歩けた記念」
彼は包みを受け取り、しばらく何も言わなかった。
「……ありがとう。大事に食べるよ」
「お菓子は早く食べないと固くなるよ」
アレクシスが背後で大きく咳き込んだ。何か言いたそうだったけれど、ミレイユが肘で止めている。
広場を離れると、通りの先に職人街の煙突が見えた。甘い香りは徐々に鉄と油の匂いに変わっていく。
私は胸を弾ませた。次は武具店だ。
今度こそ、落ち着いて見学しよう。
そう決意した直後、店の軒先に吊られた長剣の輝きに、足が勝手に速くなった。




