第31話 休日の約束と王都の地図
応用実技への参加届を提出した翌朝、私は食堂でパンをかじりながら、週末の予定を考えていた。
「エレナ、パンをそんなに睨んでも剣にはならないわよ」
ミレイユが呆れた声を出す。私の手元には、リリアから届いた手紙もあった。『姉さま、王都の剣はどんな切れ味ですか。お土産は甘いものがいいです』。
最後の一文だけ、やけに大きな字だ。
「お土産を買いに行きたいの。それから、剣の手入れ用品も」
「順番が逆でしょう」とノエルが小さく笑う。
朝の食堂には、焼きたての麦パンと果実茶の香りが満ちていた。高い窓から差し込む光が、磨かれた卓の木目を金色に染めている。
王都へ来たばかりのころは、食堂の広さにも、何種類も並ぶ料理にも落ち着かなかった。今では、この卓に友人たちが集まる時間が一日の楽しみになっている。
「エレナ、また妹さんからお手紙?」
セレスティーヌが遠慮がちに尋ねる。
「うん。今回は二枚もあるの。片方はお菓子の希望で、もう片方は『姉さまが留守の間に、庭の木を登り切りました』って報告」
「それは……元気な妹さんね」
「ええ、とても。前は枝が折れて落ちたのに、懲りなかったみたい」
ミレイユが茶器を置いた。
「あなたの家の方たち、本当に全員そうなの?」
「そうって?」
「何でも力で解決しそうなところ」
「失礼な。祖母さまはちゃんと魔法で解決するよ」
しんとしたあと、フィオナが吹き出した。私まで笑ってしまう。笑い声が大きくなりすぎないよう口元を押さえながら、ふと思った。
リーヴェルにいたころは当たり前だった会話が、ここでは少し変わって聞こえるらしい。私はまだ、王都の『普通』を勉強中なのだ。
フィオナが卓上に王都の地図を広げた。細い路地まで描かれた、商会の配達用だという。
「市場なら南門通り。甘いものは銀鈴広場の焼き菓子店。武具店なら職人街ね。あそこは先月、荷車の通行規則が変わったから気をつけて」
「荷車の規則まで覚えてるの?」
「商品の到着時間が変わるもの。商売では大切よ」
彼女は当然のように答えた。私には剣の重心と同じくらい難しい話だった。
セレスティーヌは、地図の端を指で押さえたまま少し迷っていた。
「私も……ご一緒してよいかしら」
「もちろん!」
声が大きすぎたらしい。近くの卓の生徒がこちらを見た。私は慌てて声を落とす。
「皆で行こう。せっかくの休日だもの」
彼女の肩から力が抜けた。第二王子の婚約者という立場では、外出ひとつにも気を遣うのだろう。私が簡単に言える『皆で』は、彼女にとって簡単な言葉ではないのかもしれない。
外出には学院への届出が必要だった。フィオナは店の混雑時間を調べ、ミレイユは皆が歩きやすい靴を履くよう念を押し、ノエルは小さな救急袋を用意すると言った。
「お買い物なのに救急袋?」
「人が多い場所ですから。転ぶ人もいるかもしれません」
「確かに。じゃあ私は――」
「剣は持ってこなくていいからね」とミレイユ。
「まだ何も言ってないよ!」
ただ、いつもより小ぶりの護身用のものなら、と考えていたのは秘密にしておこう。
セレスティーヌは外出届の用紙を前に、筆を持つ手を止めた。婚約者の立場を考えれば、何をするにも誰かの目を気にしなければならないのだろう。私は何も聞かず、彼女の隣に座った。
「帰りに、みんなで同じお菓子を一つずつ買おうよ。次の勉強会で食べるの」
「……素敵ね」
その声が少し明るくなっただけで、休日の予定を立てた甲斐があったと思えた。
昼過ぎ、回廊でルシアンに会った。紺色の髪が窓から差す光を受けて少し柔らかく見える。
「週末、王都へ行くんだ」
「聞いたよ。フィオナがアレクシスにも道順を渡していた」
「どうしてアレクシスに?」
「荷物持ちを頼まれたらしい。僕も同行することになった」
「よかった! 剣を選ぶとき相談できるね」
ルシアンは一瞬だけ目を伏せた。
「……剣以外の相談でも構わないよ」
「じゃあ、お菓子選びもお願い」
「うん。そう来ると思った」
彼の笑顔が少し困って見えた理由は分からなかった。
学院の門の外には、秋へ向かう乾いた風が吹いていた。私の願う平穏は、きっとこういう休日の中にある。誰かと笑い、買い物をして、何事もなく帰ってくる。
それなのに、地図の職人街に小さく記された『旧運河倉庫』の文字を見たとき、なぜか以前、学院の倉庫で見た古い刻印を思い出した。
偶然だ。そう思って、私は地図を畳んだ。




