プロローグ3 セレスティーヌ 王子の婚約者ではない私
第二王子フェリクスの婚約者・セレスティーヌのお話です。
周囲から期待される役割と、本当の自分。
その間で揺れる彼女は、学院生活に何を願っているのでしょうか。
――セレスティーヌ・ベルクハルト――
鏡の中の私は、きちんと微笑んでいた。
背筋を伸ばし、肩の力を抜き、視線は相手の目元へ。幼いころから繰り返してきた礼儀作法だ。今日のドレスも、侍女が丁寧に整えてくれた。
「お嬢様、とてもお似合いです」
「ありがとう」
鏡に映る笑顔は、私が望んだものなのだろうか。
王宮での小さな茶会。第二王子フェリクス殿下の婚約者として、私は招かれていた。銀の盆に並ぶ菓子は美しく、窓の向こうの庭園には春の花が咲いている。それでも、席に着く前から胸が硬くなっていた。
「ベルクハルト嬢」
殿下が私を呼んだ。
「学院へ入学だな」
「はい。学問と魔法を学び、少しでもお役に立てるよう努めます」
「役に立つ、か。あまり期待しすぎないことだ」
殿下は茶器を置き、退屈そうに視線を逸らした。
「君はいつも無難なことしか言わない。婚約者なら、もう少し気の利いた話ができないのか」
周囲の会話が遠くなった。私は膝の上で指を重ねる。
「申し訳ございません」
「謝れば済むと思っているのも、つまらないところだ」
言い返せなかった。何を答えても、間違ってしまう気がした。
茶会の帰り、馬車の窓に王宮の塔が映った。父は仕事で同席できず、母は私の顔色を見て何か言いかけたが、結局『疲れたでしょう』とだけ言った。
「はい、少し」
それが精一杯だった。
私は王子の婚約者だ。その立場に誇りを持つべきだと教わってきた。家の名を汚さず、国のために尽くす。それは間違いではないと思う。
けれど、殿下の前にいると、私はだんだん自分の言葉を失っていく。
屋敷へ戻ると、家庭教師が魔法の復習を待っていた。私は手を洗い、練習室に入る。
「本日は《聖晶》の形成を試しましょう」
掌に魔力を集める。淡い銀白色の光が生まれ、小さな板のような結晶へ変わった。透明な縁に細い光が走る。
「……できました」
「維持を」
一秒、二秒、三秒。息が浅くなる。四秒目で指先が震え、五秒に届いたところで結晶は静かに砕けた。
床に落ちる前に、光の欠片は消える。
「やはり、これだけですか」
「これだけ、とは言いません。独自魔法を形にできるだけでも稀なことです」
「でも、誰かを守るには小さすぎます」
先生は答えを急がなかった。
「盾は大きさだけで役目を決めるものではありません。いつ、どこに、誰のために出すか。あなたはまだ、それを学んでいる途中です」
私は掌を見つめた。ほんの五秒。短い時間だ。守ると決めた相手がいたとして、その人の前に間に合うのだろうか。
「学院では、もっと上手に扱えるようになりたいです」
「それはよい目標です」
先生は微笑んだ。殿下とは違う、私の言葉を待ってくれる笑顔だった。
翌日、ミレイユ・ラングフォードから手紙が届いた。
『学院で会えるのが楽しみ。お茶会での礼儀は大切だけれど、食堂では好きなものを好きなだけ食べましょう。私、甘いものを探すのが得意なの』
思わず笑ってしまった。ミレイユとは以前、王子妃候補に関わる集まりで知り合った。あのころから彼女は、私が緊張しているとさりげなく話題を変えてくれた。
返事を書こうとして、私は筆を止めた。
『お会いできるのを楽しみにしております』
これでは、いつもの社交辞令と同じだ。
新しい紙を取り出した。
『私も楽しみです。実は、学院の食堂で何を頼めばよいか少し不安です。おすすめを教えてください』
書いてから頬が熱くなった。こんな小さな不安を、手紙に書いたことがなかった。
数日後、届いた返事にはこうあった。
『まずは一緒に食べましょう。おすすめはその場で決めればいいのよ』
私はその一行を何度も読み返した。
誰かと一緒に決める。それは、私には不思議なほど新鮮なことだった。
その日の午後、私は侍女に頼んで屋敷の小さな温室へ行った。ガラス越しの日差しが白い花の上に落ち、土の匂いが柔らかく立ち上っている。ここは幼いころ、家庭教師の課題に疲れると逃げ込んだ場所だった。
七歳の私は、王子の婚約者になることが何を意味するのか、よくわかっていなかった。ただ、周囲の大人が喜んでいるから嬉しいのだと思っていた。初めて王宮へ呼ばれた日、母は私の手を強く握り、『笑顔を忘れないで』と言った。
その言葉を守ろうと、私はずっと笑ってきた。傷ついたときも、言い返したいときも、相手が王族だから仕方ないのだと自分に言い聞かせて。
「お嬢様、少し冷えますよ」
侍女が肩掛けを差し出した。
「ありがとう。……ねえ、私、学院でうまくやれるかしら」
「うまく、とは?」
「間違えずに話して、誰にも迷惑をかけずに……」
言いながら、自分でも息苦しくなった。侍女は花の鉢を見つめ、少し考えてから答えた。
「お嬢様が花を育てるとき、すべての葉を同じ向きに揃えますか?」
「いいえ。そんなことをしたら、折れてしまうわ」
「人も、少し似ているのかもしれません」
私は小さく息を吐いた。温室の隅では、まだ背の低い苗が陽の差すほうへ葉を伸ばしている。誰かに形を決められなくても、光のある場所を探せるのだ。
入学準備の最後の日、母が部屋へ来た。
「セレスティーヌ、何か心配なことはある?」
「……私、学院で友達を作れるでしょうか」
母は少し驚いたように目を見開いた。それから私の隣へ腰を下ろす。
「もちろんよ。あなたが相手の話を聞くように、あなたの話を聞いてくれる人もいるはず」
「でも、私には殿下の婚約者という立場が……」
「その立場は大切。でも、それだけがあなたではないわ」
私は母の手に自分の手を重ねた。掌は温かかった。
「私、名前で呼んでもらえるような友達が欲しいです」
言ってから、自分でも驚いた。願いを口にした途端、胸の奥に小さな光が灯る。
「素敵な願いね」と母は言った。
夜、窓辺に立つと、月明かりが机の上を照らしていた。私は掌を開き、小さな《聖晶》を作る。銀白の盾は静かに浮かび、五秒で消えた。
今は、これだけ。
けれど、学院で学べば変われるかもしれない。
王子の婚約者としてではなく、セレスティーヌという一人の少女として笑える場所があるかもしれない。
眠る前、私は机の上に置いた練習用の魔法石に手を伸ばした。指先に魔力を集めると、淡い銀白の結晶が掌の前に浮かぶ。薄い盾の形になったそれは、息を五つ数えるころには細かな光となって消えた。
「一、二、三、四、五……」
やはり、長くは保たない。強い衝撃を受ければもっと短いだろう。人を守りたいという願いに、私の力はまだ追いついていない。
以前、父に相談したことがある。
『才能があるなら磨けばよい。だが、才能の大きさだけでおまえの価値が決まるわけではない』
そのときは、慰められているのだと思った。けれど今なら、少しだけ違う意味がわかる。私が守りたいのは、王子の婚約者としての体面だけではない。誰かが怖がっていたら、その人のそばに立てる自分でいたい。
ミレイユの手紙をもう一度開く。『一緒に考えましょう』という言葉が、紙の上で温かく見えた。
「学院で、ちゃんとありがとうって伝えよう」
声にすると、不思議と胸が軽くなった。結晶が消えたあとにも、掌にはほんの少し温もりが残っていた。
私は灯りを消し、初めて少しだけ入学の日を待ち遠しく思った。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
誰かの期待に応えようとするあまり、自分自身の気持ちを後回しにしてしまうセレスティーヌ。
学院での新しい出会いが、彼女にとって少しでも心安らぐものになればと思います。
次回は、明るく頼もしい辺境伯家の嫡男・アレクシスのお話です。




