プロローグ2 ルシアン 三年越しの再会を待ちながら
今回は、エレナの幼なじみ・ルシアンのお話です。
離れて過ごした三年間。
学院での再会を目前にした彼は、どんな想いを胸に秘めているのでしょうか。
――ルシアン・フォルスター――
王都の春は、フェルンヴァルトの春より少し早い。
窓の外では街路樹が淡い葉を広げ、石畳を走る馬車の音が朝から途切れない。僕は机に並べた書類をもう一度確かめた。入学許可証、寮への案内、教科書の一覧。どれも揃っている。
揃っていないものがあるとすれば、心の準備だけだ。
「お兄さま、また同じ封筒を見ているの?」
妹エミリアが扉の隙間から顔を出した。
「確認しているだけだよ」
「三回目でしょう」
「二回だ」
「昨日の夜も見てたから三回」
反論できなかった。エミリアは勝ち誇った顔で部屋へ入り、机の端に置かれた薄い緑色の封筒を見つけた。
「それは、エレナお姉さまから?」
「勝手に触らないで」
「触ってないわ。見ただけ」
封筒には、北方らしい少し大きな字で僕の名が書かれている。最後に届いた手紙だ。
『学院で会ったら、まず剣術場を案内してほしいな。王都のお菓子も楽しみです』
エレナらしい順番だ。三年ぶりの再会より先に剣術場が出てくる。けれど、その素直さに何度も救われてきた。
「会えるのが嬉しいんでしょう?」
「幼なじみに会えるんだ。嬉しいに決まっている」
「そういう意味じゃないのに」
エミリアは十三歳になって、昔よりずっと人の表情を読むようになった。僕が黙っていると、わざとらしくため息をつく。
「エレナお姉さまには、ちゃんと言葉で伝えないとわからないと思う」
「何を?」
「……お兄さま、そこから?」
僕は机の書類を揃え直した。妹の言うことは正しい。正しいからこそ、今は聞きたくなかった。
エレナと初めて会ったのは五歳のときだ。父エドガーとリーヴェルト子爵が親しく、互いの領地を訪ねることが多かった。僕が本を抱えて庭の隅にいたら、木剣を持った少女が声をかけてきた。
『ねえ、ルシアン。あなたも一緒にやる?』
僕は剣より本が好きだった。けれど、彼女は断られても気にせず、『じゃあ見てて』と笑った。夕日を浴びた木剣が、弧を描いて光った。
八歳のころには、僕は彼女の笑顔をほかの誰より先に探すようになっていた。
十二歳の夜、村の近くに魔狼が出た。僕たちは大人の到着を待てなかった。人を逃がすために、それぞれ秘密にしていた力を使った。僕の冷気と、エレナの閃光。湿った空気が一瞬だけ白く光ったことを、今も忘れない。
事件は駆けつけた騎士たちの手柄として処理された。それでよかった。彼女が無事なら、それで。
翌年、父の仕事の都合で王都に移った。別れの日、エレナは笑顔で言った。
『手紙を書くね。三年なんてすぐだよ』
僕はすぐだと思えなかった。それでも、彼女が不安にならないように笑った。
「ルシアン、少しいいか」
父が扉を叩いた。エミリアは僕にだけ見えるように口元を緩め、廊下へ逃げていった。
父は机の上の学院案内を見て、頷いた。
「準備は順調らしいな。アレクシスとも連絡を取ったか?」
「はい。入学式の日に会う予定です」
「従兄弟同士、頼りになるだろう。だが、あいつは目立つのが好きだから巻き込まれすぎるなよ」
「努力します」
父は笑い、少しだけ声を落とした。
「エレナ嬢も来るのだろう」
「……はい」
「グレゴールとは長い付き合いだ。あの家の子供たちは、いずれも実力を隠すのが下手だ」
「エレナは隠すつもりでいます」
「その言い方だと、成功するとは思っていないな」
僕は答えずに微笑んだ。父はそれ以上尋ねなかった。
午後、学院の外周を歩いた。石造りの正門、紺色の旗、広い中庭。掲げられた標語には『知を磨き、力を正し、民を守れ』とある。
力を正す。僕には、ずっと考えてきた言葉だ。
僕は四つの基本属性を扱える。そのうえ、氷雪と爆炎という、容易には人に見せられない力を持つ。便利だからといって、無制限に使っていいわけではない。魔力の消耗も、周囲への影響も大きい。
エレナの秘密も同じだ。知っているからといって、僕が代わりに決めていいことではない。
守りたいと思う。けれど、彼女の自由まで守るふりをして奪うのは違う。
「難しい顔をしているな」
振り向くと、アレクシスが門の脇に立っていた。金色の陽光を背に、相変わらず遠慮のない笑顔だ。
「入学前から学院を偵察か?」
「散歩だよ」
「へえ。エレナが来るから?」
「君までそれを言うのか」
彼と別れたあと、僕は一度だけ書斎へ戻った。机の引き出しの奥には、三年前にエレナから届いた最初の手紙がある。封筒の角は擦り切れ、何度も開いた折り目が柔らかくなっていた。
『王都の暮らしはどう? 剣を振れる場所はある?』
最初の二行は、彼女らしい質問だった。最後には『無理をしないでね』と書かれている。あの日、僕は王都の広さに圧倒されていた。新しい教師、新しい屋敷、知らない礼儀。誰も僕を責めなかったのに、故郷を離れたことが急に心細くなった。
だから返事には、街の様子を詳しく書いた。図書館の天井が高いこと、菓子店の焼き林檎が美味しいこと、学院へ進むつもりでいること。寂しいとは書かなかった。書けば、彼女まで寂しくなる気がしたからだ。
次の便りには、こうあった。
『楽しいことを教えてくれてありがとう。でも、つらいことがあったら、それも書いていいんだよ』
僕はその一文を何度も読み返した。昔から、彼女は妙なところで鋭い。剣の間合いには迷わないくせに、自分のことになると驚くほど鈍いのに。
扉の外で足音がした。母アデリーナだった。
「大切な手紙?」
「……はい」
「なら、明日はその人に会えるのね」
母はそれ以上尋ねなかった。ただ、机に温かい茶を置いてくれた。
「会えなかった三年間を、一日で埋めようとしなくていいのよ」
僕は茶器に映る自分の顔を見つめた。そうだ。再会したからといって、昔と同じ距離に戻れるとは限らない。けれど、急ぐ理由もない。
アレクシスは声を上げて笑った。
「三年ぶりだろ。緊張するのもわかるさ」
「僕は緊張していない」
「そうか。じゃあ、今握っている入学案内は何だ?」
気づけば紙の端が少し曲がっていた。僕は指を緩めた。
「君は楽しそうだね」
「楽しみだよ。強い奴と手合わせできるかもしれない。おまえとも同じ学院だしな」
彼の明るさは、ときに羨ましい。僕が言葉を選んでいる間に、彼は人の懐へ飛び込んでしまう。
「ひとつだけ頼みがある」
「何だ?」
「エレナを、最初から剣の勝負に誘わないでほしい」
「……つまり、相当強いんだな?」
「そういう意味じゃない」
「わかった、わかった。無理強いはしない」
言葉の最後が妙に楽しそうで、不安が残った。
夜、僕は返事を書きかけてやめた。もうすぐ会える。手紙ではなく、直接話せる。
『久しぶり。元気だった?』
頭の中で何度も練習してみる。あまりにありきたりだ。
『君に会いたかった』
これは、まだ言えない。
夜、エミリアが小さな包みを持ってきた。薄い青の紐で結ばれた、手のひらほどの菓子箱だった。
「これ、エレナお姉さまに渡して」
「君から直接渡せばいいだろう」
「学院の寮に入ったら、すぐには会えないもの。お兄さまが先に会うでしょう?」
僕は包みを受け取った。紙には妹の少し跳ねた文字で『リリアにもよろしく』とある。故郷では、エミリアとリリアが二人で庭を駆け回っていた。転んだリリアをエミリアが助けたこともあれば、逆にエミリアが木に登って下りられなくなったこともある。
「昔、みんなで川へ行ったときのこと、覚えている?」と妹が尋ねた。
「君が靴を流した日だね」
「違うわ。エレナお姉さまが、流れに入ろうとした私を止めてくれた日」
僕は思い出した。彼女は誰かを助けるとき、自分の服が濡れることなど少しも考えない。あのころから、ずっとそうだった。
「お兄さまも、ちゃんと自分のことを話してね」
「何のこと?」
「いつもエレナお姉さまの話を聞いてばかりでしょう」
妹の指摘は容赦がない。僕は笑って誤魔化しかけ、それをやめた。
「……努力するよ」
「よろしい」
偉そうに頷いて去っていく背中を見送りながら、僕は包みを鞄にしまった。会ったら何を話そう。三年分の出来事より先に、まずは『おかえり』と言いたい。王都は彼女の故郷ではないけれど、僕のいる場所へ来てくれるのだから。
窓の向こうの街灯が揺れる。僕は最後の手紙を引き出しへしまい、そっと閉めた。
明日から、同じ空の下で過ごせる。
それだけで十分だと思いたかった。けれど胸の奥には、十分ではない願いが静かに息づいていた。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
言葉にするのは少し苦手でも、大切な人を想う気持ちは、ずっと変わらない。
そんなルシアンの不器用な優しさを、これからも見守っていただければ嬉しいです。
次回は、王子の婚約者という立場に悩むセレスティーヌのお話です。




