プロローグ1 エレナ 辺境の令嬢は平穏を望む
ここから物語が始まります。
王立セレスティア学院への入学を控えた彼らは、どんな想いを胸に新しい生活へ踏み出すのでしょうか。
まずは、平穏な学院生活を夢見る辺境子爵令嬢・エレナのお話です。
――エレナ・リーヴェルト――
王都へ出発する前の夕暮れ、私は屋敷の裏手で木剣を握っていた。
白銀の森から吹く風は、春になっても少し冷たい。山の稜線は淡い紫色に沈み、庭の石畳には長い影が伸びている。いつもなら、この時間には稽古を終えている。けれど、明日からしばらくこの景色を見られないと思うと、もう一度だけ剣を振りたくなった。
「最後の一振り、と言ってから十七回目だぞ」
背後から祖父アルフレッドの声がした。
「数えていらしたんですか?」
「孫の稽古だからな」
「明日の朝も、少しならできますよね」
「当然だ」
お祖父さまは即答した。私が嬉しくなって振り向くと、祖父の後ろで祖母マリアンヌが呆れたように肩をすくめていた。
「二人とも。明日は馬車に乗る日なのよ。筋肉痛で乗り込むつもり?」
「この程度で筋肉痛にはなりません」
「そういう返事をするところが心配なの」
お祖母さまは私の手から木剣をそっと取り、壁際の道具棚へ戻した。
「学院では剣だけでなく、魔法も学ぶでしょう。あなたには水と風の適性がある。だからこそ、できることを全部見せる必要はないのよ」
「はい。普通に、ほどほどに」
「その『ほどほど』が、あなたとお祖父さまでは違うのよね」
言い返せなかった。祖父は自慢げに頷いている。褒められていないのに。
お祖母さまが掌を上に向けると、小さな水の球が浮かんだ。夕焼けを映した水面が、橙色に揺れる。
「魔法は力を出すことより、止めることが難しい。覚えている?」
「はい」
「では、この水を一滴もこぼさずに消してごらんなさい」
私は指先に意識を集めた。水球は静かに小さくなり、やがて空気へ溶ける。残った冷たさが指に触れた。
「上出来。でも、学院の授業では先生の指示に合わせるのよ」
「お祖母さまの授業より簡単なら、つい早く終わってしまうかもしれません」
「そのときは周りを待ちなさい。待つことも技術よ」
待つこと。私は心の中で繰り返した。剣でも魔法でも、強くなることばかり考えてきた私には、案外難しい課題かもしれない。
夕食の前、私は妹リリアの部屋へ寄った。
扉を開けると、床には色とりどりの糸が散らばっていた。リリアは椅子に膝を立て、何かを背中に隠す。
「お姉さま、ノック!」
「したわよ。三回も」
「四回目まで待ってほしかったの!」
そんな決まりは初めて聞いた。私は笑いながら扉を閉めようとしたが、リリアが慌てて袖を引く。
「待って。もう少しで完成するから」
彼女が取り出したのは、淡い緑色のハンカチだった。端に小さな白い花が刺繍されている。花弁は少し不揃いで、一枚だけ隣の花に寄り添っていた。
「これ、私が縫ったの。王都で使ってね」
「リリアが?」
「お母さまに教えてもらったの。でも、最後の花は一人でできたわ」
私はハンカチを受け取り、指で刺繍をなぞった。いつも剣を振り回して私の稽古に混ざりたがる妹が、こんなに細かい作業をしてくれた。その時間を思うと、胸が熱くなる。
「ありがとう。大事にするね」
「汚してもいいのよ。洗えばいいんだから。でも、なくしちゃ駄目」
「うん」
「あと、変な人に絡まれたら、ちゃんと逃げて」
「リリア、逃げるより先に助けようとするのはあなたでしょう?」
「私はまだ十二歳だから許されるの」
理屈がわからない。けれど、笑ってしまった。
「お姉さま、寂しくなる?」
急に小さくなった声に、私は答えを探した。
「なるよ。リリアと一緒に朝の稽古をしたり、焼き菓子を取り合ったりできないもの」
「私は取り合ってないわ。先に取ってるだけ」
「それを取り合うっていうの」
妹は少し笑い、それから私の肩に額を押しつけた。
「でも、学院に行ってほしい。お姉さまには、お友達がたくさんできると思うから」
「そうかな」
「絶対。だって、お姉さまは強いだけじゃなくて、優しいもの」
強い、という言葉に私は少し困った。学院では、その部分をあまり知られたくない。
「普通の友達ができるといいな。剣の話をしても呆れない人とか」
「普通の友達は、一日中剣の話をしないと思う」
「……気をつけるわ」
稽古を終えて屋敷へ戻ると、厨房から焼きたてのパンの匂いが流れてきた。玄関の壁には、幼いころの私とリリアが背比べをした細い刻みが残っている。最後の印を付けたのは去年の秋。リリアは私よりずっと小さいのに、剣を持つと背筋だけは誰よりも真っ直ぐだった。
「お姉さま、見て!」
その本人が廊下の向こうから駆けてきた。腕には古い木剣を抱えている。
「明日からお姉さまがいないでしょう? だから、わたしがこの家の稽古を引き受けるの」
「稽古を引き受けるって、誰の?」
「お祖父さまの!」
「それは大変な役目ね」
「大丈夫。お祖父さま、きっと手加減してくださるもの」
私は思わず笑った。お祖父さまが手加減するかどうかは、実のところ怪しい。
リリアは私の笑い声を聞いて、少しだけ唇を尖らせた。
「……笑わないで。お姉さまがいなくなると、寂しいんだから」
胸の奥がきゅっと縮んだ。私も同じだ。学院へ行くのが楽しみだという気持ちと、この廊下を離れたくないという気持ちが、ずっと胸の中でぶつかっている。
「寂しくなったら、手紙を書いてね。剣の稽古のことでも、今日食べたお菓子のことでも」
「毎日書いてもいい?」
「もちろん。でも私、返事が追いつかないかもしれない」
「じゃあ、お姉さまが困るくらい書く!」
そう宣言したリリアを抱きしめると、髪から石鹸と日なたの匂いがした。小さな肩は温かく、離れるのが惜しくなる。
「……危ないことはしないでね」
「それ、お姉さまに言われたくないわ」
返す言葉がなくて、私は妹をもう一度強く抱きしめた。
夕食の席では、父グレゴールが学院の規則について話し、母セシリアが礼儀について念を押した。兄ヴィクトルは『剣の手入れは怠るな』と言い、姉クラリスは『困ったら手紙を』と微笑んだ。
「そういえば、お父さま。学院って、卒業までずっと寮で暮らすんですよね?」
私が尋ねると、父は頷いて食卓の端に置かれた学院の案内書を指さした。
「王立セレスティア学院は、原則として十六歳で入学し、十八歳までの三年間を学ぶ場所だ。貴族の子女が各地から集まり、寮で生活しながら剣術、魔法、歴史、礼法、政治、領地経営などを修める。もちろん休暇には帰省できるぞ」
「三年間……」
口に出してみると、思っていたより長く感じられた。春の白銀の森も、夏の川辺も、秋の収穫祭も、冬の雪景色も、これからは毎年ここで眺められるとは限らない。
「お姉さま、三年間ずっと帰ってこないわけではないんでしょう?」
隣のリリアが、フォークを置いてこちらを見た。昼間は元気いっぱいだった瞳が、少しだけ不安そうに揺れている。
「もちろんよ。お休みには帰ってくるつもり」
「絶対? 帰ってきたら、剣のお稽古もしてくれる?」
「ええ、約束するわ。リリアがどれくらい強くなったか、確かめなくちゃ」
「それなら、私も三年間でお姉さまを驚かせるくらい強くなる!」
勢いよく宣言した妹に、兄が「まずは食事中に剣を振らないことからだな」と笑う。リリアは頬を膨らませ、食卓に笑い声が広がった。
私はその温かな光景を胸に刻むように見回した。離れるのは寂しい。でも、学院で過ごす三年間には、きっとここでは出会えない人や学べないことが待っている。
できることなら、穏やかに友達を作って、勉強して、ときどき剣を振って。そんな三年間にしたい。
……剣を振るのは、あくまで「ときどき」のつもりだ。お祖父さまには言わないでおこう。
「それからエレナ」
父が食器を置いた。
「何かを守ろうとして、自分まで危険にさらすな。おまえには人を助ける力がある。だが、助ける方法は一つではない」
「……はい」
その言葉を聞くと、四年前の森の夜を思い出す。魔狼の目、冷たい土、隣で私を呼んだルシアンの声。私たちが何をしたか、詳しく知る人は少ない。あのときも、守りたい気持ちだけで体が先に動いた。
「ルシアンも学院にいるんでしょう?」と母が尋ねた。
「はい。三年ぶりに会えます」
「それなら少し安心ね」
なぜか兄が咳払いをした。姉はお茶の向こうで笑っている。
「ルシアンは昔から頼りになるもの」と私が言うと、母は「そうね」とだけ答えた。
夜、荷物を確かめた。制服、教本、リリアのハンカチ。それから剣を三本。
一本は稽古用。一本は手入れの行き届いた愛剣。もう一本は、万一のため。私は満足して蓋を閉めかけ、母の声を思い出した。
『普通の令嬢は、寮へ剣を三本も持っていかないのよ』
……一本減らしたほうがいいだろうか。
しばらく悩んで、結局三本とも包み直した。使わなければ目立たない。たぶん。
窓の外では、星が白銀の森の上に瞬いていた。王都の夜空は、ここほど星が見えるだろうか。
部屋に戻る途中、祖母マリアンヌの書斎に灯りがともっているのが見えた。扉を叩くと、祖母は古い魔法書から顔を上げた。
「眠れないのかい、エレナ」
「少しだけ。お祖母さまは?」
「明日から口うるさい孫が一人減ると思うと、寂しくてね」
「口うるさいのはお祖母さまです」
私たちは顔を見合わせて笑った。祖母は机の引き出しから、小さな銀の留め具を取り出す。ごく普通の、魔力を帯びていない髪留めだった。
「力を使う前に、息を一つ数えること。昔、私が教えたね」
「はい。感情で魔力を走らせないことも」
「そう。けれど、我慢ばかり覚えてはいけないよ」
意外な言葉に私は顔を上げた。
「強いからといって、何でも一人で引き受ける必要はない。困ったときには、困ったと言える相手を見つけなさい」
「……見つかるでしょうか」
「見つけるのさ。剣の構えと同じで、最初から上手にはできないだろうけれど」
祖母の指先が私の髪を梳いた。幼いころ、魔力の制御に失敗して庭の桶をひっくり返した私を、叱るより先に抱きしめてくれた手だ。
「学院では、私の孫としてではなく、エレナとして過ごしておいで」
私は髪留めを受け取り、深く頷いた。部屋へ戻ってからも、その言葉だけはいつまでも耳に残った。
私はハンカチを枕元に置き、小さく呟く。
「普通に暮らす。お友達を作る。騒ぎを起こさない」
明日の朝には、お祖父さまと最後の稽古が待っている。
旅立ちの前夜、私の願いは本当にそれだけだった。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
剣と魔法の才能に恵まれながら、本人は平穏な学院生活を望んでいるエレナ。
次回は、エレナとの再会を待つ幼なじみ・ルシアンのお話です。




